歩兵戦術
軽歩兵は一八世紀に欧州に甦った。軽歩兵という概念は真新しいものではなく、古代ギリシャ時代から歴史の終始を通じて存在していたが、主役の座に帰り咲いたのは久しぶりであった。ただ軽歩兵の役割は不正規軍としての地位に甘んじていたのが大部分の歴史であった。すなわち、弓兵、投石兵、投槍兵などで、戦闘の幕を切って落とす仕事を果たしたあとは両側に移動し、主力の決戦には参加しなかった。
火薬が出現して、彼らは小銃を装備するようになったが、主力の戦闘陣形に組み込まれなかった。彼らは規律が悪いとみなされたのである。
一八世紀の戦術は正規歩兵に柔軟性を求めず、厳格に直線形の戦闘陣形を組むことを要求した。一八世紀の長い期間、このような正規歩兵が陣形を整えるときが脆弱で敵の襲撃に対して遮掩幕を必要とした。
また、軍を支援する補給所や輸送段列も防護を必要としたが、正規歩兵には不向きな任務であった。これは重要な経験則である。このような防護は、定型化しない不規則な行動が最適なのである。結果的にわが方の補給幹線を防護し、襲撃、捕虜の獲得、敵の背後連絡線を脅かすには、不規則に行動する軽歩兵がきわめて有効であった。
こうして軽歩兵は一八世紀中ごろに欧州各国に採用された。そしてすぐに小銃の組射撃で本隊の翼側を援護する任務や主力の前方において遮掩幕を構成する任務が加わった。
欧州において最初に軽歩兵が大規模に甦ったのは、オーストリア継承戦争(一七四〇~四八)であった。一七四〇年、マリア・テレサ女帝はフレデリック大王のみならず同盟したフランス、バヴァリア軍から圧迫され、問題を処理するために野性的なクロアチア兵や残忍きわまりない国境守備隊のクロアチア兵(パンドール:pandour)を急募した。
彼らの働きは目覚しかった。これに衝撃を受けた欧州諸国は軽歩兵を採用しはじめたのである。パンドールに対抗するために、プロシャは軽騎兵と不正規の"自由"軽歩兵大隊を採用した。「毒には、毒を」の原則である。
フランスは、通常"レジョン(legion)"と呼ばれる数個の独立軽連隊を編制した。このような部隊は、不正規部隊、国境警備隊、自由大隊または軍団によって性格を異にし、さらに厳しい訓練を与えれば、支作戦部隊、前衛、襲撃部隊、強襲部隊として運用することができた。このような運用の中で国境警備/守備隊に不正規部隊が有益であったことは注目すべきであろう。
一七七〇年からあと、軽(歩兵)中隊と擲弾兵中隊(手瑠弾を投げて突撃の先導する兵士)は欧州において大隊の中に正規の編制として組み込まれるようになったが、これらの中隊はアメリカ独立戦争における苦い経験から戦闘陣形の一部とするのではなく、独立的に運用された。これらの部隊は正規軍の中で急速にエリート部隊として成長した。ときには、翼側中隊と呼ばれ、しばしば特別任務に運用された。
しかし、それでも軽歩兵は軍の主兵とはならなかった。プロシャでは、フレデリック大王は、集団の集中射撃に信頼をおき、軍需資源の大部分を発射速度の向上に費やした。プロシャは多くのフュージリア(火打石銃)部隊を編制したが、彼らは横隊陣形の中に組み込んで運用した。オーストリアも国境守備隊にこのような部隊を陣形の中に入れて運用した。
このような後ろ向きの改革の風潮に対して違った動きを見せたのはフランスだった。フランス革命のまえからフランス軍は横隊陣形で突撃するよりは、縦深の陣形で突撃するのがよいと広く認められていた。
たとえば小銃の挿弾に必要な時間を三分とし、第一列が射撃したあと後尾に下がり第二列が五歩前進して第一線に出て五秒間で照準・射撃射撃するとすれば、毎分六斉射をつづけるには、一八列の縦深が必要である。一斉射ごとに毎分約三〇歩(歩幅〇.九メートル)で攻撃前進とすれば、時速約一.六キロとなる。これは当時としては大変な突破速度であった。
問題は、攻撃前進を支援するためにどれほどの火力量で支援すべきかであって、それを横隊陣形からの射撃に期待するのか、横陣と自由に行動する軽歩兵の両者に期待するのか、すべて軽歩兵(陣形を組まない散兵群)に期待するのかであった。
各級指揮官も戦闘ドクトリンとして密集の縦隊と散兵群の組み合わせを最終的に採用することになった。フランス革命のときの歩兵もナポレオン戦争のときの歩兵もこの戦闘ドクトリンに落ち着いた。散兵群が敵軍を拘束したので、突撃する密集した縦隊は、さほど敵火に曝されることはなかった。
第一次対仏同盟戦争(一七九二~一七九八)で散兵戦術・戦闘ドクトリンは、全フランス軍の常識になった。そして一七九三年までに全フランス歩兵大隊は軽歩兵になった。これからあと、フランスの歩兵部隊といえば「軽歩兵部隊」を意味すると理解されたい。そして歩兵大隊が戦闘に参加するときは自動的に散兵式に展開した。
このような歩兵戦術はしばしば"群れ戦術(Horde tactics)"と呼ばれた。しかし、一七九五年、適切に統制された突撃縦隊の戦闘ドクトリンが開発され、散兵戦術は突撃縦隊の前方や側方において突撃縦隊を援護し、敵陣をかく乱するのにつかわれるようになった。 フランス軍のこのような傾向は、やがて軽歩兵が特別な部隊ではなくなり、それまで戦闘陣形を組んで戦うのが一般歩兵と言う概念が消え、歩兵はいっそう柔軟で広く応用性のある部隊に変質したことであった。
しかしその結果、軽歩兵が一般歩兵として溶け込んで消滅したわけではなく、偵察、警戒、襲撃などの特殊任務に最適の部隊として一九世紀半ばまで生き残ることになった。
フランス革命の政治的影響を受けて、新しい軽歩兵戦闘ドクトリンは画期的であった。フランス革命陸軍と英陸軍は一八世紀の硬直した戦闘ドクトリンを捨てた。
軽歩兵(多目的歩兵)は、小グループで比較的自由に行動できる統制で戦うことになり、各級指揮官の強制力の必要性は少なくなった。このことは、軍隊における統制と規律の役割を連隊意識、士気、愛国心に譲ることでもあった。このことは、理屈抜きに高い士気や第六感、勘などは相対的に規律の代役をすることであり、場合によっては、規律の維持と反する行動の動機にもなることを示している。
フランス革命戦争におけるフランス歩兵戦闘ドクトリンとして"突撃縦隊"は一八世紀中ごろ、戦闘経験からサックス(Saxe)元帥によって部分的に導入された。それは訓練不十分な義勇兵の群れを効果的に運用するために始められた。
起源がそうであってもフランスの陸相カルノー(Carnot)によって積極的に活用され、ナポレオンによって完成された。それは大隊を単位とする横隊の陣形を縦重に配置したもので、必要に応じ、すぐに横隊陣形に展開して戦闘できるものであった。こうして物理的にも心理的にも攻撃の重心(主攻)を形成した。
この突撃縦隊の価値は、その柔軟性と多様性にあった。こうして指揮官は、大部隊の統制が容易になり、迅速に部隊を運用できるようになった。突撃縦隊は山地の戦闘にも適用でき、いつでも必要に応じて違った戦闘陣形に転換できた。特に、行進縦隊から戦闘(突撃)縦隊への展開がきわめて容易で、行進縦隊から一八世紀の横隊陣形を整えるよりははるかに短時間で戦闘準備を完了した。
散兵部隊は、簡単な信号命令で突撃縦隊の両側を防護するために展開した。かれは二列または三列の射撃線を構成した。以前のように硬直し横隊陣形の両側に密接に並んで防護する必要性は少なくなり、戦術態勢はそれだけダイナミックになった。
突撃縦隊は二つの主機能を有している。第一は、密集した部隊を迅速に敵に接近させることである。この近接の準備は、主として砲兵火力の適切な支援と、巧妙な散兵部隊の活躍にかかっている。突撃縦隊の損害は突撃行為よりも火力の不足によるものであった。
突撃縦隊の第二の機能は、突撃することよりも戦場における支撓点を形成できることである。それは縦隊から散兵部隊を射撃戦に出撃させ、また、散兵部隊を拘置しておいて交替させ、さらに突撃縦隊自体が予備の機能を果たすことである。
もし、散兵部隊が強力な抵抗に遭遇すれば、突撃縦隊が横隊に展開して射撃戦を展開することになる。そしてひとたび敵陣が動揺を見せれば、たちどころに攻撃前進に移行するか、本来の突撃縦隊の陣形で進撃できた。
騎兵戦術
騎兵はサーベルと長槍装備で「衝撃行動」部隊としてこの世紀前半は生き残った。かなりの頑丈な鎧を着用した"重騎兵"と敏捷性で衝撃行動と擾乱攻撃の機能とする"軽騎兵"である。 ナポレオンは騎兵が牽引する砲兵を敵騎兵・歩兵部隊に対し大量に集中運用し効果的に奇襲した。騎兵による襲撃は敵歩兵陣が砲兵射撃か、フランス歩兵の突撃縦隊の攻撃によって萎縮しているか、瓦解寸前の状態にあるときに行われた。そして特に敵軍が退却しているときに効果的であった。
しかし、敵の歩兵陣が方陣を組んでいるときには成功がおぼつかなかった。優れた指揮官に指揮され、衝撃力を発揮できるように運用されたときのフランス騎兵は欧州随一の威力を持っていた。特に騎兵の襲撃が電撃的に行われたときは最小限の損害で戦果を最大限に拡張した。これがナポレオン騎兵である。そして彼は騎兵を偵察や警戒・援護に巧妙に運用した。
ナポレオン戦争の初期段階では、フランス騎兵は抜群の能力を持っていた。しかし、年とともにしだいに損害が増えるようになった。ナポレオンはフランス騎兵の優越性をいつまでも保持できないことを認識していた。それと同時にナポレオンの敵も騎兵の編制と訓練を改善するとともにフランス騎兵の編制、戦術、戦闘ドクトリンを真似た。
砲兵戦術
フランス革命軍はグリボーヴァユ(Gribeauval)の野砲システムの伝統を受け継いでいた。この砲兵の最大の特色は、砲身を短くして軽くし、砲車の重量を減らして機動力を増していることであった。砲車の車軸を鉄とし、大きい車輪をつけていた。射撃精度は弾丸の製法を改良することによって維持した。規格化された薬夾で発射速度を向上させていた。砲車を牽引する曳き馬は二列に配置した。六頭立ては一二ポンド砲に、四頭立ては八ポンド、四ポンド砲と六インチ榴弾砲に使用された。
ナポレオンは砲兵の機動力を最大限に活用し、彼の戦闘の切り札とした。彼はグランデ・バッテリー(Grande batterie)と呼ぶ砲兵の集中運用で敵陣を細断してフランス歩兵の攻撃前進を容易にしたことであった。



