英雄の誕生
イタリア半島の西側に位置するコルシカ(Corsica)島は、ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)の生地として一躍、世界史に有名になった。その面積は、わずか約三,三〇〇平方マイルでわが国の四国の約半分の大きさである。ナポレオンが誕生したころの人口は約一三〇,〇〇〇であった。
コルシカ島は古代ギリシャの植民地であったことから有史に姿を見せるようになった。最も長期の支配者はローマであったが、中世にはピサに売却され、さらにゼノアがピサから奪おうとして係争の地となった。その結果、島の住民はピサ派とゼノア派に分かれて血の抗争を数百年続け、最終的にゼノアが支配した。
しかし、住民はゼノアの圧政に独立運動という抵抗を続けたので、ゼノアはフランスにコルシカ島を売り渡した。独立運動の指導者バオリは英国に逃れた。ナポレオンの父は、フランスに仕えることになる。
ナポレオンは一七六九年八月一五日、この島の小都市アジャシオ(Ajaccio)において父カルロ(Carlo)と母マリー・レチジア(Marie‐Letizia)の息子として誕生した。レチジアは歴史上の賢母と言われている。ナポレオンはイタリア人である。
一七七九年四月~一七八四年一〇月、ブリエンヌ・ラ・シャトーの兵学校に入学した。学校では、数学と歴史と地理に特に優秀な成績を残した。この年、パリの陸軍士官学校に合格して入学し、卒業後一七八五年九月一日、試験に合格して陸軍砲兵少尉に任官した。そしてラ・フェール砲兵連隊に赴任した。そこで有名な砲術理論家であり、軍事理論家であるドュ・テイル(J.p..du Teil)の教示を受けた。ナポレオンは戦史の勉強に専念し、特にフリードリッヒ大王の戦史に傾倒した。
ナポレオンは独特の戦闘ドクトリンを開発しなかったが、フランス陸相カルノーが開発した編制思想を改善して活用した。
今日、歴史の勉強の仕方は「多数の人間活動の潮流」として捉えることが基本なのだという風潮が教育界のみならず、歴史学会の主流になっているが歴史を研究すればするほど、一人の偉人が巨大な足跡を残し、歴史の流れの方向をリードしていると感ずることは否めない。歴史は"潮流"ではなく、"気象現象"と例えた方が理解しやすい場合が多いのだ。気象現象のように「現状維持派」という気団と「現状打破派」という気団がせめぎ合う。そこに不連続線が発生し、台風や竜巻が生まれる。その台風に相当する人々が英雄や名将たちであると考えた方が歴史を理解しやすくする。
歴史の研究手法に「もし(What if ?)」がある。"もし、歴史のあるターニング・ポイントに一人の英傑がいなければ―――"と仮説を立ててみると、歴史的事象の意義が明瞭になるときがあるのだ。
英雄、名将たちで数多くの戦闘、会戦を直接指揮した人は多い。戦闘の数え方をどのように規定するかは難しいが、定説によりれば、もっとも多く戦ったのはナポレオンであると言われている。その彼は、
「Man, not men, is the most important Consideration」
とセント・ヘレナ島で語ったと英人記者が述べている(1831)。その彼が世界史の中でどんな台風であったのかを知ることは無駄ではないだろう。彼も完全な人間ではないが、学ぶものは多いはずだ。
人類の歴史は、戦争の歴史を軸に動いてきたといわれている。事実、ナポレオンは戦争を基軸に生涯を過ごした。彼は司法・行政、社会システムでも多くの事跡を残したが、五二年間の生涯の大部分は戦場で過ごした。五二年間のち、士官学校を卒業して砲兵少尉に任官してからセントヘレナ島に流刑されまでの年月は三〇年、そのうちパリに生活していたのは、合計一〇年未満で、約二〇年は戦場往来の生活であった。
歴史上、「ナポレオンの時代」として区分されるのは一九前半世紀である。この時代区分において、軍事史における三大分水嶺の二つ目を越えた。ナポレオンが実証した軍事発展の方向と刺激によって、火薬をベースとする兵器の運用が理論と実際の合致点に到達した。
すなわち火薬が戦場に出現して以来、兵器と戦闘ドクトリンと戦術が歴史の経験則に相似して合体したのだ。
銃剣付きフリントロック・マスケット銃と滑腔カノン砲はほとんど完成の域に達していた。数世紀の試行錯誤の結果、指揮官は歩兵、騎兵と装備を組み合わせで最小限のコストで最大の成果を挙げることができるようになった。
兵器と戦闘ドクトリンと戦術の結合の在り方は一九世紀前半に理論化された。しかし、それを実行したのは天才ナポレオン・ボナパルトである。ナポレオンのように、軍事史に時代区分に名を残すような名将はいない。
産業革命は、この一八世紀の後半には大きい影響を及ぼした。しかし、それは産業と農業への衝撃だけではなく、フランス革命戦争に端を発して、国民が政府意思決定に参画するという「戦争の民衆化」と組み合わさって大きい力となることを示した。このような現象はこれまでの歴史の中では、七世紀のイスラムの爆発によってモスレム軍が宗教的熱情に駆られて「ジハード」を戦って以来のことで、装備、補給も大軍の支援に応ずる動員ができたのであった。そしてナポレオンによる刺激とあいまって産業革命は軍事理論の開発とこの時代において近代的な職業軍人を生むことになった。
兵器
兵器産業に大きい飛躍があった。一八一〇年にフリードリッヒ・クルップ(Friedrich Krupp)は小さなプロシャ鍛造工場を作った。それはやがて巨大な鐵鋼産業帝国として花開いた。
アメリカでは、ロバート・E・パロット(Robert P. Parrott)、ジョン・A・ダールグレン(John A. Dahlgren)、トーマス・J・ロッドマン(Thomas J. Rodman)、英国では、ウイリアム・G・A・ストロング(William G. A. Strong)、ジョゼフ・ホワイトウォース(Joseph Whitworth)、フランスでは、アンリ・ジョゼフ・パイジャン(Henri Joseph Paixhans)、サルディニアでは、ギォヴァンニ・キャヴァリ(Giovanni Cavalli)たちが兵器廠や鋳造工場でカノン砲の製造に技術開発して大砲科学の革命を行った。小火器では、雷管がフリントロックに取って代わった。
しかし現実には、陸戦でも海戦でもこのような発明は一九世紀前半には何の影響も顕さなかった。なぜならこのような開発は現役の武器・弾薬として姿を見せなかったからである。
ナポレオンの作戦概念
一八世紀の終わりまでに、欧州における戦闘は投入兵力がしだいに大きくなり、横隊の戦闘陣形を組んで互いに包囲しよとする定型的な戦術で戦われるようになった。格別な兵器の開発も、軍隊の編制の開発もなかった。もちろん兵器と戦闘ドクトリンの研究は行われたがーーー。
小銃の改善がつづき、歩兵が軍の主兵となった。小銃の機構の改良と戦闘射撃法の改善によって小銃の発射速度がしだいに向上した。
騎兵の主兵器はサーベルであったが、一部は騎兵銃(カービン)を装備した。砲兵は性能一杯の支援を行うようにになった。しかし大砲は攻撃において機動部隊の先頭に膚接するような近接した支援を行うには、精度、発射速度、弾道の安定性がえられなかった。
ナポレオンは、このような戦術の傾向を大々的に改革しようとはしなかった。その代り、このような戦術を基礎にして革命的な戦略概念を開発した。まさに「技が確立して術が定まり、その術を駆使して策に革命を起した」のである。
ナポレオンは、戦闘に先立って戦略的機動によって態勢の優越を獲得し、敵部隊を撃滅する会戦の戦略を模索したのだ。あえてナポレオンの作戦概念を名付ければ「会戦戦略」といえる。
彼の会戦計画は、有力な一部で敵を正面に拘束し、主力をもって側背から包囲攻撃するか、その逆に、有力な一部をもって敵の側背から攻撃して敵主力を拘束し、主力をもって正面突破するものが常套策であった。主攻に対しては砲兵の主火力を指向して支援した。
有力な一部の攻撃に対し、敵が主力をもって対応するように仕向ける。ここが知恵の出しどころであるが、そのためには、「偽騙」と「機動力の発揮」を駆使した。
それにしても有力な一部と主力が「同時に」敵に襲い掛かることは、難しい工夫が必要であった。敵の弱点に対し、主力をもって攻撃することは、机上の空論としては言うはやすいが、現実には、そんな間抜けな敵はいない。したがって、敵の弱点、または苦痛とするところに有力な部隊をもって「主力による攻撃と見せかけて」攻撃し、それに対する敵の対応の結果として生ずる敵の新たな弱点に対して主力が攻撃できるように仕組んだのだ。
言ってみれば、敵の次の一手を読んだ戦略である。いずれにしても戦場に向かう機動も戦場における機動も「速度」が不可欠の要素であった。第一線師団の翼側は軍団の騎兵によって、さらには軍主力の騎兵予備によって防護した。
ナポレオンは戦場において敵部隊を徹底的に撃破しないかぎり、敵国の戦略的要地や政治上の要地を占領しなかった。地域の占領は非戦闘員の組織の仕事であった。彼は、
「軍隊の使命は敵部隊の撃滅と戦意の破砕である」
という原則を厳格に守った。



