攻城戦術と技術
初期の会戦においてジンギス・カーンはしばしば中国の強力な城壁に悩まされた。そこで攻城の研究および戦闘体験と中国が運用していた攻城技術を導入し、数年にしてモンゴル軍指揮官たちは、城を守る側がほとんど対応できないような攻城システムと戦術を体得した。
攻城システムの基本要素は巨大であるが機動性のある攻城段列であって、焼夷弾や煙弾を含む飛翔体発射機と組み立て式櫓梯子、振り子式槌などであって分解して運ぶ馬曳荷車と乗馬工兵(技術者)から構成されていた。

ジンギス・カーンは攻城段列の構成員に中国人技術者を徴募した。優遇と強制によってアレキサンダー大王やシーザーに優るとも劣らない工兵師団を編制したのである。
ジンギス・カーンの後期の会戦と彼の優れた武将スブタイの会戦においては、もはやモンゴル軍の進撃を阻止し得る城砦はなかった。原則として敵野戦軍と戦闘するとき、2~3個連隊を広く離れて密かに敵軍の出撃拠点となった城砦に突進できる態勢に配置した。野戦において敵軍を撃破するやいなや敵軍を背後から追撃して敗走速度を遅らせるとともに、あらかじめ準備し、配置していた師団が敵軍に先立って、あるいは渾然一体となって城内に雪崩れ込んだ。これでは敵が城門を閉じることはできなかった。
戦略的に重要であって、内部に大きい軍駐屯地を有する城に対する攻撃においては、1個師団で包囲し、攻城段列を推進した。城を基地とする敵が野戦において撃破されると多くの場合、城砦守備隊は降伏した。この場合、ジンギス・カーンは城内の居住者をきわめて寛大に取り扱った。そして捕虜や投降部隊に命じて城壁を完全に破壊させてから、城内の治安維持と住民保護を彼らの手に委ねて軍を引き揚げた。敗軍はジンギス・カーン軍の一隊になったのだ。しかし、謀反を起すと再度攻撃し、全員虐殺すると宣言しておいた。もし、城砦守備隊が愚かにも降伏を拒否すれば、モンゴル工兵師団は驚くほどの効率性をもって城壁に開口部を開設するか、城門を破壊するか、焼き払う一方、戦闘部隊は下馬して徒歩兵となり、城壁を攀じ登って攻撃した。城内の住民は略奪され、虐殺され、すべてが破壊された。モンゴル軍は旅商人にその様相をみせて世界中に宣伝させた。この峻烈さは「ジンギス・カーン」の名前とともに想起されるほど歴史上、最も激しく、残虐で恐ろしいものであった。これはきわめて冷静なジンギス・カーンの戦略判断によるもので、この噂が世界に伝わることによって、包囲された城砦の無益な抵抗や、モンゴル軍の撤退のあとにおける謀反が著しく激減し、結果的に全体的にみればジンギス・カーンの征服作戦が速度を増し、拡大するにともなって人命の殺戮と財産の破壊が最小限にしたのであった。この意味でジンギス・カーンは戦争の本質の理解者であって、戦闘と単なる殺戮の差異を良く理解していた。彼は
『軍隊とは敵軍を撃破することが使命であって、それ以上でもなければ、それ以下でもない。占領地を軍隊で支配するのは愚の骨頂である』
と名言を残している。だからわずか24万を超えない兵力で世界最大の帝国を建設できたのだ。
とにかく敵の野戦軍が戦場から敗走して城内に逃げ込むよりも早く、ジンギス・カーンの攻城段列のバリスタ、カタパルト、攻城槌の準備が開始されていたのだから、恐るべき機動速度であった。
指揮・通信システム
初期の会戦のころ、モンゴルには文字がなかった。もちろん地図もない。しかもシンギス・カーンが勝利するたびに敵軍部隊を「敵味方なし(ノーサイド)」として処遇してモンゴル軍の一隊に組み入れたから、通訳なし言葉も通じない。
モンゴル軍に組み入れられた民族部隊は、東は朝鮮半島から西はカスピ海におよぶ多数の民族、部族の軍隊である。
シンギス・カーンは彼らを旗とドラの信号と簡単な手信号、号令、のろしで指揮できるように砂漠の演習場で訓練した。
だからモンゴル軍の戦闘行動は2~3の行動パターンを手信号、旗信号で行うように造り上げられた。言葉による命令はいらない。しかも部隊は命令にきわめて迅速に反応して行動する。
実はこれが軍隊の指揮命令システムの基本であり、理想である。文書、図画、写真、数値、表で命令するのでなければ3万名以下の軍隊が一瞬に行動できないようでは、戦闘に敗北する。なぜなら、戦闘行動は、言語・数値で把握・表現できない世界における人間活動であるからである。今日、指揮システム開発に従事するIT技術者やソフト開発者が、その重要性を強調するがナンセンスである。最も開発しなければならないのは手信号ひとつで部隊が動く数個の基本的戦闘行動パターン(得意技)である。
「右から一発殴れ」「判りました」
これが砂漠におけるロンメルの命令下達と受領であった。



