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チンギス・ハーンの戦闘教義(第一回)

ジンギス・カーンの軍事システム

モンゴルの"HORDE"

 "Horde"と言う言葉は本来、トルコ語で「野営地」という意味であるが、同時にモンゴル民族または一個野戦軍の意味にも使われている。しかし、また「大群」の意味にも使われている。

これはモンゴル軍と戦った西方のトルコ族や欧州の人々が小さなモンゴル軍に圧倒されたと信じたくないから、この「大群」の意味に使用したのであった。

 これは、半分は彼らの敗北に対する言い訳であり、半分は驚嘆すべきモンゴル軍の軍事システムを理解する機会が無かったからである。

ジンギス・カーンによって創造されたモンゴル軍の軍事システムは素晴らしい機動力の発揮と竜巻のような打撃力の発揮によって欧州人に

「モンゴル軍は膨大な兵力を有し、無軍律で、ただその兵力量によって目的を達成するものである」

と心から間違って信じさせたのであった。ジンギス・カーンと彼の軍は、今日まで世界の軍隊が創造し得なかった最も優れた軍事制度、最強の訓練、最も厳格な軍律を達成してみせたものであり、今日でも不可能でないかぎり近代軍が追求すべき理想像である。彼らはその偉業を成し遂げたのであった。

モンゴル軍は敵軍に対して戦力量において常に劣勢であった。ジンギス・カーンが最も多くの兵力を投入したペルシャ会戦でも24万以下の兵力であった。ロシアと東部および中部欧州を征服したときは15万以上の兵力を超えることはなかった。それにもかかわらず2~3倍の敵軍を一撃で撃破したのであった。

この意味では"Horde"とは、高速で襲いかかる竜巻のような少数精鋭の機動軍を指すとして使用されるべきであろう。

アレキサンダー大王、ハンニバル、ナポレオン、グーデリアンと同じように、ジンギス・カーンは軍の編制・装備を考えるにあたり、単に国際情勢、国内政治情勢、経済環境の中での国家戦略、軍事戦略を考えるのではなく、『広く応用性のある創造的かつ基本的な戦闘ドクトリン』を確立して、このドクトリンに基いて軍事システムを建設したのだ。彼は人間が活動する世界は、法律、言語、数値では把握しえない広い領域が半分以上占めていると認識していたのである。

モンゴル軍の軍事編制

 「量」ではなく、「質」がモンゴル軍成功の秘密であった。それは物的戦力だけでなく、精神的戦力も同じであって、将兵の価値を金銭で評価するのではなく、軍人精神の質で評価した。 「簡明」がモンゴル軍編制の最大の特色であった。いくつかの補助部隊を除けば、全軍が騎兵部隊であった。その狙いは機動力において完全な均質部隊にすることであった。

編制は「一〇進法」を基礎としていた。最大の独立編制部隊は「トーマン」と呼ばれ、兵力は指揮機構を除けば1万であった。これは近代軍の機甲師団に相当する。通常、3個トーマンをもって独立1個軍または1個軍団を編成した。

一方、1個トーマンは、兵力1千の連隊10個で編制されていた。1個連隊は兵力100の騎兵大隊10個であった。1個大隊は兵力10名の騎兵隊10個から編制されていた。

典型的な1個モンゴル師団の40パーセントは衝撃行動を主たる使命とする重騎兵であった。

重騎兵は、通常、皮革製の鎧、状況によって敵軍から奪った鎖製の完全な鎧を着用し、当時のビザンチン帝国の騎兵や中国騎兵が着用していたものと同じような兜をかぶっていた。重騎兵の乗馬にも皮革製の鎧を着せていた。重騎兵の主武器は槍(ランス)であった。

1個師団の60パーセントを構成する軽騎兵は、兜を着用していたが鎧を着ていなかった。しかし、その運動性はきわめて軽快で、あらゆる地形を克服し戦闘することができた。大河も戦闘陣形を保ったまま泳いで渡った。その主武器はアジア式弓、投槍(ジャヴェリン)、投縄の三つであった。はっきり言えば狩猟道具である。

Gengfis Khan wikipedia

 そり返ったモンゴル式弓はイギリスのロング・ボウよりも少し短いが、スキタイ民族やトルコ民族の伝統的な弓よりもはるかに強力で殺傷力があった。

各軽騎兵隊は2個の矢筒を携帯しているほかに補給段列を形成する騎馬隊に大量の矢を積み込んでいた。軽騎兵の使命は威力偵察、遮掩幕の構成、重騎兵に対する火力(射撃)支援、掃討作戦、追撃であった。もちろん必要に応じて帯剣をふるって近接戦闘を実行した。

機動力を確保し増大するために重騎兵も軽騎兵も1以上の予備乗馬を保有していた。これらの予備乗馬は行進隊(10騎)の後方を続行し、行進間はもちろん、戦闘間においても随時乗り換えられるように続行した。

継ぎ馬は任務の達成の阻害を最小限にし、安全を確保しつつ実施した。この訓練は困難であったが、あらゆる状況を想定して練成された。また、砂漠を越えるときには飲み水の入った羊の皮袋を予備乗馬に2袋を携行させた。予備乗馬は、ときとして非常用糧食にもなった。

 軽・重騎兵はいずれも三日月刀か、戦斧を携帯し、戦闘直前に着用する絹シャツを携行していた。ジンギス・カーンは矢が厚手の絹地を貫徹することが難しく、単に将兵を負傷させるだけであることに気付いていた。中国人の軍医は絹地を引っ張るだけで、しばしば突き刺さった敵の矢頭を負傷した将兵の体から引き出すことができた。

一人の指揮官が手足のように直接指揮できる人数については「10名」は多いと考えられ易い。直接指揮する単位が多いほど戦術に柔軟性を持つが、指揮統制が困難になる。しかし、近代軍においても歩兵の1個分隊の兵員数は9~10名である。10名は、分隊長、伝令、2個班(4名で1個班は2名1組が2個)という構成になる。

かつてイギリスの猛将スリム中将は

「1個師団も1個分隊を指揮するのも同じである」

と豪語したが、この編制思想を述べたのである。今日の師団の戦闘部隊は3~5の場合が多いが、戦闘機能が専門分化されているので、実質的に9~10個部隊数になっている。

「10個」という指揮単位数は"戦術上の要求"と"指揮統制の容易性"の均衡点であるのかも知れない。問題は専門分化され過ぎている部隊をいかに統合するかにある。

ジンギス・カーンの1個師団の軽騎兵と重騎兵の使命を戦力的に比較すると前衛に軽騎兵20パーセント(戦力経済部隊)、主力は重騎兵40パーセント(突撃)と軽騎兵40パーセント(火力支援)の1対1の比となっていた。これは近代軍の編制に大きい示唆を与えている。

主力が戦闘を開始すると、前衛の半分10パーセントは5パーセントづつ左右に分かれて翼側を警戒し、残りの半分10パセントが眞予備となった。この眞予備はエパミノンダスやハンニバル、さらに18世紀以降のイギリス軍の編制思想が9分の1の眞予備を拘置し戦勝分岐点に投入するという戦闘ドクトリンと同じような考え方に立っていた。

チンギス・ハーンの戦闘教義(第二回)に続く

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