東インド会社
高校時代に、「東インド会社が世界最初の株式会社」と習った記憶がある。
ところが調べてみると「東インド会社」は一つではなく、イギリス、オランダ、スエーデン、デンマーク、フランスの各国に存在した。
各国が東インド会社を作ったのは、それ以前はアジアで交易会社が乱立し、過当競争に陥っていたのを防ぐためだった。そしてイギリスがイギリス東インド会社を最初に作り、アジア地域との貿易を独占する権利をエリザベス1世から与えられた。当時「インド」とはヨーロッパ・地中海絵庵癌地方以外の地域を指していた。1600年のことである。これに驚いたオランダは1602年により大きな資本でオランダ東インド会社を作ってイギリスに対抗する。
当時はポルトガル・スペインの黄金時代で、オランダとイギリスは新しい会社組織に国の力を集結し、ポルトガル・スペインの牙城に食い込んでいく。これらの会社はそれぞれの母国が発行した特許状を持ち、貿易の他、条約の締結、軍隊経営、植民地経営、などの権利も与えられていた。その点では現在の株式会社とは大いに異なっている。対象地域はアジアである。
また、株式会社の起源はオランダ東インド会社であって、イギリス東インド会社ではないようである。
1.イギリス東インド会社
概要
自前の従業員を持っており、主業務は貿易。本社はロンドン、当初の株主125人、資本金7万2千ポンドであった。
インドネシアでの香辛料(当時の主要貿易品目)貿易をするためにジャワ島やインドに拠点を置き、マレー半島やタイ、日本の平戸、台湾にも商館を設けたが、オランダ東インド会社との競争に負けて、インドに力を集中することになる。インドではカルカッタ、マドラス、ボンベイ(ムンバイ)に拠点を置いた。会社はフランス東インド会社との競争に勝ってインド全域を手中に収めた。ナポレオン戦争後は再び東南アジアに進出してペナン島、マラッカをはじめとする元オランダ領東インドの各地、シンガポール、を手に入れて、1826年、これら3植民地を統合して海峡植民地とした。
1819年、イギリス東インド会社のラッフルズは、東西貿易の中継地を求めて人口わずか数百人のシンガポールに上陸した。数年後には、イギリスの旗のもと、シンガポールはイギリスにとって、マレー半島植民地化の基地となっていたのである。
シンガポールに立つラッフルズの銅像出典
サマセット・モームが滞在したことで有名なラッフルズ・ホテルは、ラッフルズの名前にちなみ、1886年にオープンした。
ラッフルズホテルのドアマン出典
アヘン戦争
18世紀以降には、中国の広東とも貿易を始めた。この時の主要な貿易品目がアヘンであった。中国はアヘンの弊害を見てなんとかこれを禁止しようとしたが上手く行かず、特命された大臣 林則徐は1839年、アヘン商人たちに「今後一切アヘンを持ち込まない」と言う誓約書を出す事を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収し、これをまとめて焼却処分した。この時のアヘンの総量は1400tを越えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。(アメリカ商人は誓約書をすぐに出して巨利を得ていた。)イギリスはこれに対して、直ちに戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にはイギリス本国の議会でも、野党であった後の首相ウィリアム・グラッドストンなどが『恥さらしな戦争だ』として反対したが賛成271票、反対262票の僅差で承認された。1842年に清国の敗北を認める条約が両国によって調印された。
イギリスがこれだけアヘンに拘ったのは、当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していたが、逆にイギリスから清へ輸出できるものが少なくて、イギリスの大幅な輸入超過であったからである。そこでイギリスが目を付けたのがインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易をすることにした。これによってイギリスは空荷で舟を運行する必要がなくなったのである。
アヘン戦争出典
林則徐の銅像出典
イギリスはアヘン戦争に勝って、多額の賠償金、香港の割譲を受けると共に、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認められ、治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認を獲得した。しかし、これらを定めた条約は、戦争の原因となったアヘンについては特には触れていなかった。さすがのイギリスも戦争の真の原因を文書上に残すことに躊躇したためであると言われている。
しかし、イギリス製の靴下を中国に輸出しようと言う望みは叶わなかった。中国製の綿製品がイギリス製品の輸入を阻害したからである。これが第二次阿片戦争とも言われる1859年のアロー戦争へとつながっていくことになったと言われている。
このときに阿片貿易で儲けた資金を安全かつ迅速にイギリスに送金するために、ロスチャイルド一族のユダヤ系イギリス人アーサー・サッスーンが設立したのがHSBC(香港上海銀行)である。HSBCは現在でも健在で日本にも支店をだしているのでご存知の方も多いだろう。
そして1857年~1859年のインド大反乱(シパーヒー(セポイ)の乱、第一次インド独立戦争とも言う)が起る。
セポイの乱
セポイの乱の漫画出典
イギリスは、インドを原料供給地であるとともに、自国の綿製品を売り込む市場としたので、インドの資源はイギリスに吸い取られ、インド国内は混乱するとと同時に土着の綿工業は急激に衰退した。このため多くのインド人がイギリスへの反感を持つに至り、反乱への参加者の増加につながった。そのため、この大反乱はインドで初めての民族的反乱とされている。
この大反乱は、1857年5月にインド北部の都市でシパーヒー(sipahi)が蜂起したことに始まる。スィパーヒーとはイギリス東インド会社が編成したインド人傭兵のことで、セポイ(sepoy)ともいわた。多くはヒンドゥー教徒とイスラム教徒からなっていた。彼らが反乱を起こした直接的な原因は、イギリス軍が新たに採用した銃の薬莢にヒンドゥー教徒が神聖視する牛の脂とイスラム教徒が不浄とみなしている豚の脂が使われていた。当時の薬莢は紙製であり、弾薬には防湿油ないし潤滑油として脂が塗られていたが、弾丸を装填する場合にはまず口で弾薬の端を食いちぎらなければならなかったため、彼らは戦闘時に宗教的禁忌(牛または豚を口にすること)を犯すことになる。彼らはこれを宗教的侮辱と受け取って弾薬の受領を拒否するなどしたが、これらの行為は懲罰の対象とされた。こうした処置に怒ったシパーヒーは、ついに反乱を起こすに至ったのである。
翌1858年には東インド会社の軍隊の反攻が始まり、反乱軍は鎮圧された。
一方東インド会社は、インド人に重税を掛けながら自分達は汚職・着服によって莫大な私利をむさぼった。そのため会社の効率は落ち、赤字決算が続いて、再々本国政府に援助を依頼することとなった。イギリス政府は、一会社に広大なインドの領土を託すことの限界を痛感し、東インド会社を解散させ、直接統治することにした。これにより、インドの支配権はヴィクトリア女王に返上され、東インド会社は1874年に解散、274年の歴史を閉じた。
日本人傭兵
イギリス東インド会社には多くの日本人が傭兵として働いていた。鎖国が始まって日本に帰れなくなった海外在住の日本の武士が多数いたのと、更には鎖国を嫌って海外に脱出した武士がいたものと思われる。ピーター・ウォーレン・シンガーによるとイギリス東インド会社の傭兵の半数は日本人であったとのことである。
中でも有名なのがアンボイナ事件(アンボン事件)である。これは、1623年にモルッカ諸島のアンボイナ島(アンボン島、クローブなどの香料の産地)にあるイギリス商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件である。これによりイギリスの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占して、イギリスはインドへ矛先を向けることとなった。
この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形成されるほどであった。アンボイナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もいた。
1623年2月23日の夜、オランダ側の傭兵・七蔵が衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数についてしきりに尋ねていた。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束して拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白。直ちにイギリス商館長ガブリエル・タワーソンら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせた。3月9日、当局はタワーソンをはじめイギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名を斬首して、同島におけるイギリス勢力を排除した。
当時のオランダの要塞出典
それに先立つ1613年イギリス東インド派遣船司令官ジョン・セーリスが日本からバンテンに帰港した時、日本人水夫15名を雇い入れている。その後1617年リチャー ド・ウイッカムは平戸を去るにあたり、日本人11名を伴い、他のイギリス船でも14名が渡航している。1621年商館長コックスの8月3日の日記には給料支払い名がある。
The Moon 乗り組 善三、三四郎、久七
The Bull 久左、 マチヤス、五郎作、
The Elizabeth 忠七郎、仙五郎、儀八、
イギリス人に雇われて海外に出た邦人もかなりいたことが分かる。
1617年7月19日、市場での些細な両商館員の諍いから、オランダ商館次席が日本人を含む20名を連れて急行して害を与えたのにイギリス側も雇員の日本人、バンダ人を引き連れてオランダ館を急襲し、黒人1名を斃し4名(日本人1名を含む)に重傷を負わせた。バタヴィア政庁はピーテル・デカルベンチールをバンテン王に差し向け、英人の不法行為を糾弾した。
この事件が決着しないうちの11月22日に、再び悶着が起こって互いに相手を殺傷するまでに発展し、イギリス側は200人でオランダ商館を襲撃した。オランダ人の大半は遁走したが、踏みとどまった日本人5名は防戦して1名即死、4名が重傷を負った。殺害された日本人の中にカピタンがいたと言う。
バンテン王は外出差し控え勧告をだしたが、この事からも同地の両商館に雇用される日本人は30~50名にものぼり、カピタンにも選任されていたことが判明する。その後両国は互いに物資搬入を妨害しあい、1621年、命令違反して出港した日本人12名が捕らえられ殺されたり、同33年オランダ艦隊のバンテン港封鎖で、数名の日本人船が拿捕されたり、自ら商船を操って独力活動した者もあった。
同年9月9日イスパニア人の拠る旧ポルトガル城塞に一番乗りの旗を翻したのは日本傭兵で、あまりに大胆剽悍なため多数の戦傷者をだしたと報告されている。
オランダ軍の出動に対抗して、フィリピンのドン・フアン・デシルバ長官が、15隻からなる艦隊をモルッカ遠征に組織した際、マニラ在住日本人の500名が応募して従軍したが、その管理に手を焼き、シンガポールで解雇し陸上に追放してしまった。
オランダ方面軍の報告には、再三にわたって日本人傭兵や大工・石 工・鍛冶職の狡猾、制御困難、危険性を指摘しているから、少なからざる日本人が雇用されていたのが判明する。1617年8月12日のテルナテ島マライユの オランダ駐在員決議録には、「今度のエーンドラハトで当地に来る日本人には、頭領を置き、それを互選させることが適当」と記している。
フレデリック・ハウトマン知事(1621年)の名簿にも、オランダ人40名、マルダイケル25名、日本人20名の名簿があり、カラマタ城塞篭城戦では、イスパニア側戦死11、負傷40、オランダはオランダ人7名、日本人3名戦死、20名が負傷している。
斬首された日本人は下記の通りである。
七蔵 Hytieso 24歳 平戸 傭兵
シドニイ・ミヒール Sidney Migiel 23長崎 アンボン英国商館雇員
ペドロ・コンギ Pedro Congie 31 長崎 Conje、Congey
トメ・コレア Them Corea 50 長崎 朝鮮系?
長左 Tsiosa 32 平戸 傭兵
久太夫 Quiondayo 32 唐津 傭兵
神三 Sinsa 32 平戸 傭兵
左兵太 Tsavinda 32 筑後 傭兵
三忠 Sanchoe 22 肥前 傭兵
ソイシモ Soysimo 26 平戸 傭兵
作兵衛 Sacoube 40 平戸 傭兵
最後の2名は後に釈放
ヤン・ヨーステン、ピーテル・ファン・サンテンによると、日本人は常時刀)を二本帯びていたこと、彼等もマレー、ポルトガル語を話すことを述べている。また事件後も日本人が30名程がいたと言っている。
アンボイナ守備隊名簿には五郎作、ヨウストJouste、長崎のLouis、庄三郎、堺の孫六などの名前がある。
DVD(東インド会社出演):パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド 2-Disc・スペシャル・エディション
文献:戦争請負会社
イギリス東インド会社(上)
イギリス東インド会社について前回書き漏らしていたことを追加したい。
1.イギリス東インド会社と株式会社
イギリス東インド会社は世界最初に作られた東インド会社で1600年のことであった。オランダ東インド会社が作られたのはその2年後の1602年である。
しかし、オランダ東インド会社が最初から株式会社として作られたのに、イギリス東インド会社はそうではなかった。ではどういう形だったか。
それは個別航海と呼ばれて、一航海ごとに資金を集めて、舟が帰ってくると売り上げ全額を出資金に応じて分割してお終い、と言う形だった。一方のオランダ東インド会社は既に株式会社であり、出資は10年間固定されると共に株主は有限責任であった。しかも資本金はイギリスの約10倍。これでは太刀打ちできる筈がない。そこでイギリスも次第に航海を集約して行くことになる。
イギリスは元来、商業的な貿易よりも、ヴァイキングの流れを汲む略奪・拿捕の海賊行為が得意だった。これが後のインド経営に生かされたとも言える。
2.取り扱い品目の変遷
イギリスは最初得意の毛織物をアジアに売り込もうとしたが、気候が違うので思うように売れなかった。そこで、仕方なく、金銀塊や貨幣で輸入品を買い込むようになった。当時のヨーロッパの生活レベルは高くなく、アジアの人たちが欲しくなるような魅力的な品物はなかったのだろう。舟や武器(銃など)はヨーロッパの方が進んでいたと思われるが何故これを輸出しようとしなかったのか不思議だ。アジア側の需要が少なかったのか、技術流出を恐れたのか?
一方輸入品は最初は胡椒、スパイス(クローブ、ナツメグ)であった。胡椒は南アジアの多くの国で作られていたが、クローブとナツメグはインドネシア東部モルッカ諸島のごく一部の島でしか作れなかった。そのためもあって、胡椒は大衆的で大量だが安価、クローブとナツメグは高級品で高価(胡椒の約10倍)だった。
クローブ(丁子)出典
ナツメグ
出典
このインドネシアでイギリスはオランダに遅れをとり、第1回でのべた「アンボイナ事件」をきっかけにイギリスはインドネシアから撤退する。 1657年イギリス東インド会社もオランダのように利潤部分のみを株主に配当して永続的な会社組織をとることになる、これを「クロムウエルの改組」と呼ぶ。なんとピューリタン革命のクロムウエルがそんなことをしていたのだ。 インドネシアから撤退したイギリスはインドに向かう。そして、キャラコ(インド木綿)、絹織物、コーヒー、茶などを扱うようになり、これが徐々に伸び、やがて胡椒、スパイスを凌ぐことになる。
3.キャラコは何故伸びたか
東インド会社がインドから木綿製品を輸入するまで、ヨーロッパでは木綿は知られていなかった。織物の主流は毛織物であり、それ以外では麻しか知られていなかった。しかも麻はイギリスでは取れず輸入品であり、木綿の値段は麻の3分の1であった。肌触りが良く吸湿性があり、肌着には最適だった。そこでイギリス・ヨーロッパで人気を呼んだわけである。なお、キャラコと言う呼び名は、ポーランド人のヴァスコ・ダ・ガマが始めてインドに到着した時に、インド人が着ている木綿の布地を「カリカット製の布」と呼んだことに由来するそうである。 何故そんなにキャラコは安かったのか?インドの手織りの技術が高かったのとインドの労賃が安かったことによる。1700年頃のイギリスの資料によるとインドの労賃はイギリスの労賃の約6分の1であったそうだ。イギリスの生産品にインド人が興味を持たず、イギリス人がインドの各種製品に惹かれたと言うことは、当時のインドの生活水準がイギリスよりも高かったことを意味するようにも思えることに対して、労賃に当時からそのように大きな差があったことは興味深い。貧富の差が大きかったのかもしれない。 しかしこのように急激にインド産木綿がイギリスに入ってくれば、当然従来のイギリス毛織物に対するイギリス国内の需要は急減する。そこでインド産キャラコの輸入を制限しようとする意見が出てくる。当時の人たちはこれを「キャラコ論争」と呼んだ。 当時は現在のようなマスコミはまだない。そこで自分の意見を聞いてもらいたい人はその意見をパンフレットにまとめてコーヒー店等で配った。その意見に反対する人はまた別のパンフレットを作った。そしてあわよくば議会に自分に有利な法律を作らせようとした。その結果、1700年に「キャラコ輸入禁止法」が、1720年には「キャラコ使用禁止法」が下院で可決された。しかしいずれも抜け穴の多いザル法であったので、効果はなかった。これも東インド会社の力であったと言われている。 キャラコの輸入の伸びがどれだけ激しかったかはその輸入実績を見れば分かる。1620年頃には胡椒とスパイスは全輸入品の中の75パーセントを占めていた。それが1670年には41パーセント、1700年には23パーセントになってしまった。 一方、織物の輸入は1670年に36パーセント、1700年には55パーセントになっている。
キャラコ
出典
参考文献:「東インド会社 巨大商業資本の盛衰」浅田 実著、講談社現代新書
東インド会社―巨大商業資本の盛衰 (講談社現代新書)イギリス東インド会社(下)
4.発展期
東インド会社がこのような輸出品を買い入れるためにインド側に支払ったのは未だに銀地金である。(適当な輸出品がイギリスにはまだなかった)しかしその銀はアメリカ大陸から強奪してきた銀であった。そして着々と会社は成長したのである。
1670年代のイギリスの輸入額は年平均14.4パーセント上昇した。
1657年に配当制が取られるようになるとともに、社員の有限責任性が取り入れられた。
1666年の配当は40パーセント、1671-74年には90パーセント、1671年から81年までの配当は合計240パーセント。年平均21.8パーセントであった。1681年から1691年までは年平均45パーセントを配当している。しかし、これらの高配当は正確な損益計算に基づいたものではなかった。当時はまだ正確な損益計算ができなかったからである。減価償却、借入金返済のための積み立て、各商館の維持費等が正確に控除できていなかったのだ。したがって現在では当時の東インド会社が本当に儲かっていたのかどうか疑問を持つ人も多い。
一方、ロンドンではこの頃から株の売買が始まっている。東インド会社の株も当然投機の対象となった。しかも株価は経営者によって自由に操作され、営業成績とは関係無しに株価が決まり、配当金が支払われていた。また、株主の権利も平等でなく恣意的に変えられた。会社に負債を負った人が返済不能になれば会社自身が負債者の財産を差し押さえられた。株の売買も秘密で株価も公開されていなかった。恐ろしい時代である。
イギリス東インド会社社長のジョサイア・チャイルドはデマを流したり、サクラを使ったり、株価を自由に操作して莫大な財産を作った。当然反対派ができて1698年「新東インド会社」を作った。しかし、1709年両社は合併すると共に、株主は全て一人一票の投票権をもって総会に出席できるようになった。そして、取締役の権限、株主の権利、社印使用規則、株主総会議事録の書き方、総会召集手続き等を定めていく。後にこれが民主的株主総会の出現だったと言われるようになる。この会社が1858年まで存続した。
500ポンド株主は挙手で投票し、1000ポンド株主は無記名投票ができた。3000ポンド株主は2票、6000ポンド株主は3票、1万ポンド以上株主は4票を与えられた。
ロンドン本社に勤務していたのは1784年に150名、1833年に300名、インド現地で1793年から1813年の間に採用されたのは、書記40人、士官240人、医師30人であった。
1699年から1701年に輸入されたキャラコの3分の1が国内消費、3分の1がヨーロッパ各国、残りがアメリカとアフリカに再輸出された。
株式市場が未整備な中で、多くの新しい会社が計画されたり、設立されたりした。そして株式投機は次第に熱狂的な高まりを見せて、世界最初のバブルを経験することとなる。
それが「南海泡沫事件」である。南海会社は、経営危機を乗り越えるために、1719年、無限に株価が上昇し、株保有者はみるみる豊かになっていく、と言う計画「南海計画」を発表した。
これを信じた人たちによって、南海会社1株あたりの価格は、1720年1月には100ポンド強であったものが、5月には700ポンドになり、6月24日には最高値1050ポンドをつけた。イギリス国内には投機目的で無内容な泡沫会社が多数作られ、これらは1720年前半に不当な高値を付けて投機熱は極度に上がった。わずか数ヶ月でこのバブルは崩壊し、株価は元に戻り、多くの破産者、自殺者が生まれた。しかし、この騒ぎの中で東インド会社の受けた損害は僅かだった。
なお、オランダでは1634年にチューリップバブルが起っている。1633年までは正常な取引であったのが、1634年から異常な投機による価格高騰が始まり、1637年2月の初めに突然崩壊するまで続いた。チューリップの価格は高値の100分の1に下落したと言われている。
5.茶の登場
1662年、イギリス国王に嫁いだポルトガル王女が極東の茶と喫茶の風習をロンドンに持ってきた。これがイギリスでの喫茶の始まりと言われている。その後、イギリスに来たオランダ王女や18世紀のアン女王等が茶を好んだことがイギリス社会に喫茶の風習を根付かせた。
イギリスは1664年から1668年までは、オランダ東インド会社から茶を買っていた。直接インドからイギリス東インド会社が茶を輸入するのは1669年以降である。1690年になるとインドからの全輸入量の1パーセントになった。1750年には1710年代の12倍になった。茶の関税がほぼ100パーセントと高かったので、ヨーロッパ各国からイギリスへ茶の密輸が盛んに行われた。この密輸を行ったのがイギリス東インド会社である。
1697年イギリスは初めて中国アモイから茶を輸入する。1717年からは定期的に中国茶を広東から輸入するようになり、その量も爆発的に増加し、絹の輸入量を超えるようになった。18世紀後半には、茶が中国からの輸入量の80パーセント以上を占める様になった。また、イギリスに茶が広がったのは西印度諸島から安い砂糖が入るようになったことも大きかった。
英国式アフタヌーン・ティー
出典
6.ネイボッブ(インド成金)
1757年、ベンガル地方のプラッシーで現地土着勢力間の争いが起る。両者がそれぞれフランスとイギリスに助けを求めたことからこの争いはフランスとイギリスの戦争になってしまった。そして勝ったのはイギリスだった。1764年、再び両国の戦いが起き、ここでもイギリスが勝った。その結果、時のムガール皇帝はイギリス東インド会社にベンガル・ビハール・オリッサの徴税権を与えた。この権利のことを「ディーワーニ」と言う。
このことによって、イギリス東インド会社はそれまで精々年間数10万ポンドの利益しか上げられなかったところに、165万ポンドの追加利得が得られることになった。
しかし、農民が納めた税金は途中の様々な人間に掠め取られて、国庫に入るのは残りの僅かな金であった。しかも、東インド会社の現地社員の着服により、イギリス本国に送られる金は本国が期待したよりもはるかに少なかった。
そのことを知らない投機筋が東インド会社株をいじりだし、株価は急上昇を始めた。東インド会社は1765年以降の株主からの配当金増加要求を断りきれず、1717年に配当を12.5パーセントに引き上げ、金融的に苦しくなった。イギリス政府は緊急融資を行うと共に、インドを直接支配することとした。(ベンガル最高会議設立)
ベンガルはインドで最も農業生産の高い地域だったが、東インド会社がディーワーニを獲得して以来、取立てが厳しすぎて農村が疲弊し、農業生産も手工業生産も衰退に向かい始めた。そこで東インド会社の新総督ヘイスティングスは塩とアヘンの取引を全て会社で独占し専売制とした。
1784年にはインド法が成立して東インド会社に対するイギリス政府の管理は更に強くなった。ディーワーニ獲得によって東インド会社が単なる商業的な存在から領土支配権力に変身した当然の結末であったと言われている。
その頃インドから帰ってきた元東インド会社〃員たちはインド民衆から絞り取った多額の富を見せびらかし、彼らは「ネイボッブ(nabob)」と呼ばれて、羨望と蔑視の対象となった。「インド成金」である。もちろん、東インド会社のディーワーニ獲得以後、ベンガル地方を始めとするインド一般大衆の生活は貧窮のどん底に落ちた。一方、東インド会社の財政は赤字で政府にしばしば融資を願い出た。これでは社会から東インド会社が非難を受けるのは当然であろう。なお、多くのネイボッブ家庭はインドでは100人程度の人を使っていたと言う。
なお、アニメにもなった「小公女(しょうこうじょ、A Little Princess)」この中に出てくるお隣の大金持ちはネイボッブであろうと思われる。
7.産業革命とセポイの反乱
1700年のキャラコ輸入禁止法、1720年のキャラコ使用禁止法制定後もキャラコの輸入は増え続けていた。そこに1967年アークライトが水力紡績機、1769年ワットが蒸気機関を改良、1779年クロンプトンがミュール紡績機、1785年カートライトが蒸気機関を利用した力織機をそれぞれ発明し、産業革命が始まった。1790年代に入ると、これらの機械がランカシャーの綿工場で本格的に稼動し始めた。しかし、イギリス綿業が世界進出を始めるのは1820年代、30年代以降である。これらのイギリス製品はアジア方面、やがてインドにも輸出されるようになり、次第にその量を増して行く。これがマンチェスター・コットンである。これがインドの木綿産業を壊滅させた。「木綿職布工たちの骨はインドの平原を白くした」と言われている。
アークライトの水力紡績機
出典
ミュール紡績機
出典
ワットの蒸気機関
出典
力織機
出典
一方、プラッシーの戦いからセポイの反乱(1857年)までは丁度100年になるが、この間にイギリスはインド各地に対する征服戦争を行い、ついにはインド全土を支配するに至る。その時に使われたのが、東インド会社の傭兵「セポイ」だった。セポイは最初1000人だったが100年後には20万人に膨れ上がっていた。その兵力は地方制圧に使われると共に、ディーワーニとしての地税徴収にも使われ、東インド会社の収支は改善されたのである。 セポイの反乱は1859年7月までおよそ2年にわたって、南インドを除く広範囲な地域で起った大反乱であった。それだけインド民衆のイギリスに対する反感が蓄積されていたのであろう。 イギリス政府はセポイの反乱を収めるためにインドに大軍を送り、これを収束させると共に、1858年東インド会社からインド統治権を奪い、最終的に1600年東インド会社を解散させた。彼らの生き残りは香港などを拠点に活躍を続けた。例えば、ジャーディ・マセソン、である。
参考文献:「東インド会社 巨大商業資本の盛衰」浅田 実著、講談社現代新書 東インド会社―巨大商業資本の盛衰 (講談社現代新書)1.オランダ東インド会社以前の香料貿易
中世以降のヨーロッパでアジアの香料が珍重されたのは、食用肉の貯蔵のためである。当時のヨーロッパでは冬の間家畜を養うことが困難なので、秋に大量に殺して解体し貯蔵した。その際、塩漬けだけでは美味しくないので香料を追加した。当時はモルッカ諸島やバンダで作られた香料は一旦ジャワのクレシグに集められ、それからマラッカを通ってヨーロッパに運ばれた。香料諸島は食料その他の生活必需品の自給ができず、外部からの輸入に頼っていた。しかもパンダ諸島の住民以外は航海が不得意だったので、香料諸島に食料等を運び入れるものは香料を輸入できたのである。

現在もお祭りとして当時の風習が各地に残っている。これはスペインのマタンサ祭。
出典
1512年~1515年の記録によるとマラッカには毎年大船100隻、小船30~40隻が集まっていた。これらの船は風待ちで数ヶ月間も停泊することがあったらしい。当時のマラッカの港には大小の船約2000隻が同時に停泊できたと言う人も居る。当時世界最大の港であったと言われている。
711年、当時イベリア半島を支配していた西ゴート王国はアラブの軍隊に負ける。以後約500年間アラブのイベリア半島統治が続いた後、1247年にポルトガルが、1492年にスペインが、当時モール人と呼ばれていたアラブ人を撃退した。なお、コロンブスがアメリカを発見したのはこの年である。ポルトガルは逆周りでアフリカ航路を開拓し、1488年喜望峰に達し、1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインドに達した。従来からの東西交通は地域ごとに荷物の積み替えが必要だったが、ポルトガルは遠回りとはいえ、アジアから本国まで一貫した海上交通を可能にすると共に、経路上に要塞を設けて経路の確保に努めた点が新しい。

インドネシア西部
オランダ東インド会社 永積昭著 講談社学術文庫
オランダ東インド会社 (講談社学術文庫)
ポルトガルは1511年にマラッカを占領して、香料諸島で香料等の買い入れを始め、1521年にはスペインも太平洋周りでモルッカ諸島に達して香料の買い付けを始めた。しかしイスラム商人も以前と同じように買い付けを続けたので、ポルトガル人の貿易独占の望みは実現できず、マラッカの港までアジア商人が運んできた商品を買い取るようになっていった。ポルトガルはマラッカ占領後、高い関税をかけると共に、煩わしい拘束を取り決めたので、アジア商人はマラッカを嫌って、スマトラ西北端のアチェーを利用するようになった。そして1596年にオランダ艦隊が初めてパンテンに到着する。
2.オランダ東インド会社誕生
ネーデルランド(オランダを含む)は15世紀末以来ハプスブルグ家の支配下にあり、1556年にはスペイン王・フェリペ2世が植民地として相続した。彼はスペインの貴族を重んじ、カソリックを庇護して厳しく異端審問を行うと共にネーデルランドに重税を課した。そこでネーデルランドの貴族層はカルヴァン派の市民と共に1566年に反スペインの暴動を起こした。スペイン王・フェリペ2世はこれを厳しく弾圧したが、暴動は次第に、独立戦争・宗教戦争の色彩を帯びるようになり、80年戦争となった。1579年のユトレヒト同盟を基礎として「ネーデルランド連邦共和国」が成立したが、建国宣言や独立宣言のようなものはなかったので、成立年は明確ではない。
この間、オランダでは海運業が発達し、17世紀初頭にはオランダ一国の船舶所有数はヨーロッパ11カ国の総数に匹敵すると言われていた。交易の相手は主にバルト海沿岸諸国でアムステルダムは西ヨーロッパ一の穀物市場となった。1590年には地中海貿易にも進出した。風車の技術と帆船の技術には共通点が多く、これがオランダの技術的優位を生んだと言われている。スペインは新大陸との貿易に必要なヨーロッパの工業生産物をネーデルランドやイギリスの商人から入手しており、そのためにオランダと戦争しながらも、同時にその軍資金を提供するような取引を行わざるを得なかった。
そしてネーデルランドの毛織物工業がスペインを凌ぐようになると、新大陸の銀はスペインを素通りしてオランダに流入するようになった。この銀はまた東インド貿易でアジアの香料を買うために必要であったので、オランダの商人たちは東インド貿易に魅力を感じるようになった。このようにして最初の航海会社(「遠国会社」)が1594年に9人のオランダ商人によって設立された。オランダ商人は最初ポルトガルとの衝突を避けて、北回りで東インドに到達しようとしたが、シベリア北方まで行って挫折、ポルトガルの開拓した喜望峰周りの航路を取ることになった。1595年にオランダの4隻の艦隊が14カ月をかけてジャワのパンテン港に到着した。しかし、双方の不慣れのため貿易は直ちには始められなかった。1598年、同社は他社と合併した後に8隻の艦隊を派遣した。到着したパンテン王国は丁度ポルトガルと交戦中でオランダはパンテン側を援助したために、大量の胡椒を買い取ることができ莫大な利益を上げた。この成功を見てオランダ各地に似たような会社が多数設立され、競争が激化した。そのために生じた過当競争を避けるために1602年にオランダ東インド会社が設立された。その資本金は2年前に設立されたイギリス東インド会社の略10倍であり、次のような特徴があった。
(1)取締役、株主が有限責任となった。
(2)出資者は直接会社に出資した。
(3)株式の譲渡は自由であった。
これらの特徴から、オランダ東インド会社は「世界最初の株式会社」と呼ばれている。イギリス東インド会社の組織は当時ここまで整備されておらず、一航海ごとに精算・解散する「当座企業」であった。ただし、オランダ東インド会社も
(4)株式の譲渡証書を所有するのは会社であり、証券化はまだ不完全であった。
(5)株式は等額に分割されず、資本金も確定していなかった。
等の未発達の要素を残していた。
オランダ東インド会社は東インドにおける条約締結、自衛戦争の遂行、要塞の構築、貨幣の鋳造等の権限を与えられていた。その対象地域は「喜望峰の東、マゼラン海峡の西」であった。定員60名の取締役会があり、その上に「17人会」と呼ばれる重役会があって会社の方針を決定したが、経理内容は公開されず、配当は利潤とは無関係に恣意的に決定された。
オランダ東インド会社アムステルダム本社とそのロゴ
出典
3.会社の発展
インドネシア東部
オランダ東インド会社 永積昭著 講談社学術文庫
オランダ東インド会社 (講談社学術文庫)
1605年オランダはアンポンをポルトガル人から奪った。これが東インドにおけるオランダの最初の領土である。アジアの原住民はポルトガルの一方的な買い付け方式と共にキリスト教の布教を嫌っていた。オランダも清廉潔白ではなかったがポルトガルよりは腐敗の程度が低く、キリスト教布教に固執しなかったので当初は原住民に歓迎された。
オランダ独立戦争は1609年に12年休戦に入り、オランダはスペイン・ポルトガルの支配から脱して独立すると共に、海外領土も保証されることとなった。
イギリス東インド会社は設立こそオランダよりも2年早かったが、海上進出はオランダの方が数年早かった。また、オランダのようにはっきりした永続的な組織を持たず、航海ごとに臨時的に編成された。設立当初の資本金もイギリスはオランダの10分の1であったが、1613年になっても約半分の規模であった。イギリス東インド会社の強みはその海軍力にあった。
オランダは1610年にジャカルタ(じゃがたら)との間に有利かつ詳細な条約を結ぶことができた。
イギリスは香料諸島への進出を強め、1616年にパンダ諸島のルン島を占領すると共に、パンテンでも勢力を伸ばした。そのような情勢の中で、オランダ東インド会社では第3代総督(現地責任者)に武断派ク-ンが就任する。クーンはジャカルタからイギリス軍を追い払ってジャワにおけるオランダの最初の占領地とし、バタヴィアと改名した。
東インド会社・1で触れた「アンボイナ事件」が起ったのはこの頃である。イギリスはこの事件をきっかけにジャワ及び香料貿易から手を引き、インドに専念することになる。1622年にクーンは一旦総督を辞任するが、1627年に再び着任する。既にイギリスは去り、スペイン・ポルトガルの貿易も不振で、オランダの問題は、無統制なオランダ自由民(オランダ東インド会社員以外のオランダ人)であった。オランダは1641年マラッカを占領し、ポルトガルの衰退を決定的なものとした。
オランダ東インド会社は最盛期の1669年には、戦艦40隻、商船150隻、兵士1万人を擁し、1602~1696年までに、同社が支払った年間配当はおおむね20%以上で、ときには50%を越えることもあった。
4.日本との関係
1600年九州の豊後海岸にオランダのリーフデ号が漂着する。1598年にロッテルダムを出航し西回り航路を取っていた途中で遭難したのである。110人の乗組員中生存者は24人、そのなかにイギリス人ウイリアム・アダムス(後、三浦按針)がいた。ポルトガル船が種子島に漂着したのは1543年、まもなくスペイン船がこれに続いたのでオランダは約60年近く遅れたことになる。
1603年オランダ東インド会社がマライ半島のパタニにオランダ商館を開いたことを知って、家康はこのオランダ商館に日本との交易を許可する意向を伝えた。1609年オランダの公式な使節が家康に面会し、朱印状をもらった。そして平戸にオランダ商館を開くこととなり、オランダとの貿易が1612年に始まった。1613年にはイギリス船も平戸に入港し、平戸に商館を開いたが良い成績を上げることができず、1633年に閉鎖された。しかし日本の輸入品の主なものは中国産の絹織物や生糸であったので、オランダは中国貿易を行う必要があった。オランダはこのため台湾の西海岸に基地を作った。これがすでに台湾で中国貿易を行っていた日本商人(末次平蔵)との軋轢を生むこととなる。
平戸
出典
しかし、1637年に島原の乱に際して、オランダが船に載せた大砲によって原城を砲撃したことによって徳川幕府はオランダがキリスト教布教の意志がないことを認め、日本来航の継続を許した。なおオランダ商館は1641年に幕府の命令で平戸から長崎出島に移転した。

長崎の出島
1633年には、スペイン・ポルトガルのキリスト教宣教を恐れて、最初の鎖国令が出された。朱印船の渡航は禁止され、日本人の海外渡航、海外在住の日本人の帰国が禁止された。海外在住の日本人は配偶者を現地に求める他なく、次第に現地に埋没して行った。
オランダ東インド会社は喜望峰から日本までの間に約20箇所のオランダ商館を持っていたが、その中で日本貿易による利益は群を抜いて一位であった。日本は輸出品に乏しく、輸入代金として銀、金、銅の地金や貨幣を輸出した。この時代の乱掘によって日本は現在鉱物資源に乏しくなったと言われている。
5.忍び寄る衰退
オランダ東インド会社の特許状には、条約締結、要塞建築、戦争については規定されているが領土については何も規定されていない。このことと符節を合わせるように、会社は商業活動だけに興味をもっており、定着農耕には興味がなかった。会社だけでなく、オランダ市民も農業をやろうとはしなかった。周辺諸国との条約においても境界線は明確に定義されなかった。
しかし、現地の王朝の紛争に関与することが重なると共に、オランダは領土への関心を深めて行った。そしてオランダの強圧に対する現地人の反感も高まって行ったのである。一方、オランダ人以外のヨーロッパ人はインドネシア全土から次第に駆逐された。
コーヒーはもともとエチオピア原産だが、1699年にジャワに移植され、各地に広がった。
オランダ東インド会社はこの頃、戦争の費用、領土拡大に伴う人員・施設の増加などで支出は増える一方であったが貿易額はむしろ減少しつつあった。会社の勢力拡大により、製品を買い叩かれた原住民は疲弊し、購買力が低下した。オランダにとってインドネシアは原料買い付け市場であって、オランダ製品の販売市場とは考えられなかった。そのためにオランダはイギリスよりも近代化に乗り遅れることとなる。
1721年にエルベルフェルトの陰謀事件が起った。彼はドイツ系の混血の資産家であったが、仲間と共に反乱を企て、オランダ人を殺してバタヴィアの首領になろうとしたと言うのだが、真相は定かでない。彼は残虐に処刑され、その首は槍に貫かれて自宅跡に晒された。(現在復元され観光地になっている)

記念碑
バタヴィアの外国人で最も数の多いのは中国人であった。しかもその数は増え続けた。貧しい者も多かったために、治安が悪くなったので、中国人に対する取締りが強化され、中国本国送還やセイロンへの送還が行われた。1740年、既に多数の中国人がセイロンに農業労働者として送られていたが、「セイロンに送られるのではなくて、沖合いで海に投げ込まれるのだ」と言う噂が流れ、暴動が始まった。オランダ人は中国人を無差別に殺した。これが「バタヴィアの狂暴」である。この余波が各地に及び、1745年まで動乱が続いたが結局オランダ東インド会社側が勝利を収めた。この頃東インド総督府内では権力争いが激しく、泥仕合が続いていた。
また、この間ずっとオランダ東インド会社が悩まされてきたのが、イギリス東インド会社と同様に「私貿易」である。東インド会社はいずれも対象地域の貿易を独占するために努力してきたのだが、この私貿易とは、社員が個人的に貿易を行うもので、莫大な利益が得られるために、会社が止めさせようとしても遂に根絶することはできなかった。収賄も同様に根絶できなかった。それどころか、時代を経るにつれて、益々横行していった。会社が原住民から富を奪うのを見習って、社員は会社の富を掠め取っていたのかもしれない。
6.そして終末
オランダ本国では80年にわたった独立戦争が1648年に終った。レンブラント、フェルメール、ハルス等の画家はこの頃一斉に現れた。そしてその後何故か後継者は現れなかった。
イギリスの清教徒革命を起こしたクロムウェル時代のイギリスは、オランダの中継貿易を根絶するために1651年「航海法」を発布した。これはイギリス及びその植民地に入港できる船を下記の条件を満たす船に限定するものであった。
(1) 乗務員の4分の3以上がイングランド人であること。
(2) イングランド製の船であること。
(3) 所有者がイングランド人であること。
この法律は狙い通りの効果を発揮し、オランダの海運に大打撃を与え、1652年の蘭英戦争を引き起こすこととなった。これは一度では終らず、1665年、1672年、1780年と4回にわたって行われた。これらの戦いによりオランダは国力を大きく消耗するのである。
オランダではこの頃漁船が減少している。イギリス、スコットランド、デンマーク、ノルウエー等との競争が激しくなったためである。その結果、遠洋漁業に従事する人が減少し、造船技術の進歩が止まり、イギリスに太刀打ちできなくなった。地図作成技術についても同様である。それが18世紀後半のオランダの状況であった。
毛織物業も衰退していた。毛織物の全工程を行っていたのが、次第にイギリスの毛織物の仕上げ工程だけを行って販売するようになった。オランダには商業優先の気風があり、工業で富を蓄えた者は商人に転向する者が多かった。貧富の格差も大きく開いて行き、享楽的な風潮が広がった。オランダの資本家がイギリスやフランスに投資するようになった。こうして、長い間ヨーロッパの商業・金融の中心地であったアムステルダムはロンドンにその地位を奪われる。
この間、オランダ東インド会社のスマトラ、カリマンタン、モルッカの貿易は一向に振るわなかったが改善策は何も取られなかった。第4次蘭英戦争中にイギリスはオランダ東インド会社の船を拿捕し、オランダ本国の港も封鎖したのでオランダは植民地との連絡ができなくなった。オランダ東インド会社の損失は膨らむ一方であった。この状況の中でオランダ東インド会社を解散せよという意見が現れたのは当然であろう。
オランダ本国では1794年フランス革命軍が侵攻し、オランダ全土を制圧、バタヴィア共和国を建設した。革命政府はオランダ東インド会社の重役を解任し、1798年正式に会社は解散された。以後のインドネシア支配は会社でなく国家が行うこととなった。
DVD:レンブラントの夜警
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