ゲルマン民族の南下を惹き起こしたのが寒冷化であったのに対して、なぜヴァイキングは、中世温暖期に南下したのか。なぜ中世初期のキリスト教国は、北に向かって膨張しなかったのか。ヴァイキング活躍の背景を探ろう。
1. ヴァイキングとは何か
ヴァイキング(Viking)は、8世紀から11世紀にかけて、ヨーロッパやその周辺地域で、貿易、強盗、植民などをした、スカンジナビアの海賊である。特にイギリスでは、ヴァイキングがリンデスファーン修道院を襲撃した793年から、スタンフォード・ブリッジの戦でノルウェー王のハーラル3世がハロルド2世に敗れる1066年までを「ヴァイキング時代」と呼んでいる。
ヴァイキングが8世紀に住んでいた、本来の居住地は、以下の図で、濃い赤色で塗られた、スカンジナビア半島南部やユトランド半島である。9世紀には赤色、10世紀にはオレンジ色、11世紀には黄色の地域に進出し、定住している。緑色の地域は、ヴァイキングが襲撃をしたり、進出を試みたりしたが、本格的な定住は行われなかった地域である。
なぜ、8世紀から11世紀にかけて、ヴァイキングは海外進出をしたのだろうか。その背景を探る手掛かりを得るために、当時の気候を調べてみよう。
2. ヴァイキングの時代は中世温暖期である
以下のグラフは、西暦200年から1980年にいたる気温の変動を、様々な代理指標をもとに再現したものである。このグラフの右端が現在で、過去1800年間で最も温暖化していることがよくわかる。それより左にある、15世紀から19世紀までの谷間は近代小氷期に相当する。5世紀と6世紀の谷間は、ゲルマン民族の大移動を惹き起こした寒冷期で、これについては、「なぜ古代ローマ帝国は滅亡したのか」で既に紹介した。二つの谷間に挟まれた山の部分が中世温暖期と呼ばれている時期で、ヴァイキングの時代は、ちょうどこの中世温暖期の頂点にまたがっている。
[原資料の出典:Mann, M.E. and P.D. Jones(2003)2,000 Year Hemispheric Multi-proxy Temperature Reconstructions]
このグラフを見てもわかるように、中世温暖期といっても、決して安定的に温暖だったわけではない。温暖化により、スカンジナビア半島とユトランド半島の人口は増えたであろうが、一時的な寒冷化とその結果としての凶作により、原住地では食べていけなくなった余剰人口が、新天地を求めて移住していったことは想像に難くない。
この説明は、ヴァイキングが、アイスランド、グリーンランド、北米、スカンジナビア半島の奥地、ロシアといった、それまで寒すぎて人が住んでいなかった、あるいは人口密度が低かった地域に移住した背景を明らかにしてくれる。しかし、気候が温暖化していたならば、むしろ南のヨーロッパ人が北上する方が自然であり、北のヴァイキングが南下するというのはおかしいのではないのか。ヴァイキングが南下し始めた頃、日本では、坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われ、温暖化とともに、日本の版図は北に向かって広がっていった。なぜヨーロッパのキリスト教国は、かつてのローマ帝国のように、温暖化の時代に北に向かって膨張しなかったのか。次に、この問題を考えよう。
3. なぜキリスト教国は北上しなかったのか
ヴァイキングが暴れた始めた頃のヨーロッパ諸国は、イベリア半島を占拠した後ウマイヤ朝の西カリフ国を除けば、おおむねキリスト教国だった。313年にローマ帝国で公認されて以来、キリスト教は、ローマ帝国内部で広がり、さらには、ゲルマン民族をも教化した。
ヨーロッパの中央部に広大な領土を持ったフランク王国は、ローマ教皇と結びついた典型的なキリスト教国であった。西ローマ帝国の崩壊後、イギリスを支配したアングロ・サクソン人は異教徒だったが、596年に、教皇グレゴリウス1世は、アウグスティヌス(初代カンタベリー大司教)と約40人の修道士をイギリスに派遣し、アングロ・サクソン人をキリスト教に改宗させた。アイルランドには、432年に、ローマ教皇がパトリキウスを派遣し、キリスト教を広めた。ポーランドは、962年にミェシュコ1世がポーランド公国を建国した時からキリスト教国になった。東ローマ(ビザンツ)帝国は、もちろんキリスト教国のままである。
ヴァイキングの人々はキリスト教徒ではなかった。だから、彼らは、修道院なども平気で略奪したのである。後に、ヴァイキングの人々がキリスト教に改宗すると、ヴァイキングの時代は終わった。だから、ヴァイキングの時代を説明する上で、キリスト教は重要なファクターである。
当時のキリスト教諸国は、外に向かって膨張しようとはしなかった。北からはヴァイキングに、南からはイスラム教徒に、東からはマジャール人[m]に攻められ、それを防ぐのがやっとだった。では、なぜ中世初期のキリスト教国は、これほど消極的だったのだろうか。一つ推測できることは、この当時のキリスト教国には、人口増加がなかったであろうということである。
[m] マジャール人はウラル山脈の中南部の草原から来た遊牧民で、9世紀にヨーロッパを襲撃し、レヒフェルトの戦いにおいてオットー1世に敗れた後、ハンガリー平原にハンガリー王国を作って、定住した。ハンガリー王国がキリスト教国になったのは、1001年である。
初期のキリスト教徒には独身主義が顕著であった。独身主義のモットーは「一つ心で歩め」である。
どういうことかというと、妻子を持っている人間は、妻子をいかにして喜ばせるかということに心を用い、心が分断されてしまう。したがって、肉の関係を放棄し、自分の肉体の底にある真の自分を発見し、絶対者である神と直面しようとするものは、つねにひとり、シングルでなければならない。これは心がひとつ、シングルであるということを意味しているのです。
パウロも、結婚よりも独身の方が望ましいと言っている。
男は女に触れない方がよい。
しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。
夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。
妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。
互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。
もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。
わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。
未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。
しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。
多くの熱心な信者が修道院に入り、独身のまま生涯を終えた。女性も、穢れた存在にならないためには、「キリストの花嫁」となって、一生独身を貫かなければならない。このため、各地に女子修道院が作られた。こうした独身主義の流行のおかげで、キリスト教国の人口はあまり増えなかった。だから、外に向かって領土を拡張する必要はなかった。
また、修道院は自給自足的で、キリスト教徒は貿易には熱心ではなかった。だから、ヴァイキングは、キリスト教徒に代わって、イスラム商人との交易ネットワークを維持するべく、ヨーロッパ各地に進出したとみなすことができる。キリスト教の現世否定的な禁欲主義は、ローマ帝政末期の悪性インフレを抑制するイデオロギーとしては適合的だったのだが、温暖化の時期のヨーロッパをも支配した結果、ヨーロッパを遅れた地域にしてしまった。
キリスト教国が積極的に膨張政策を取るようになったのは、1096年から始まる十字軍遠征以降である。この時期は、中世温暖期の終了の時期に合致する。寒冷化が原因でキリスト教徒が南下しようとしたわけである。やがて、貨幣経済がヨーロッパに浸透し、カトリック教会の世俗外的禁欲に代わって、プロテスタントたちの世俗内的禁欲が、資本主義の成立をもたらす。
なぜ近代資本主義は、世界の他の地域ではなくて、ヨーロッパから始まったのか。マックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理、遡っては、古代ユダヤ教のエートスにその原因を求めた。ウェーバーは権威のある社会学者で、この説は、社会学界では定説のようになっているが、私は、これとは全く異なる仮説からウェーバーが立てた問いに答えたい。
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