シュメール人は、世界で初めて都市文明を築いた。現在の地球文明の原型はシュメール文明にある。シュメール文明はなぜ成立したのか、なぜ滅んだのかを分析しながら、文明のあり方を考えよう。
1. シュメール文明の成り立ち
シュメール文明とは、周辺民族とは言語系統が異なるシュメール人が、紀元前3100年頃に、メソポタミア(現在のイラク)南部に造った世界初の都市文明である。もう少し広く、メソポタミア文明といってもよいのだが、それだと、後に北部に成立したアッカドやバビロニアまで含まれてしまうので、シュメール人の文明に限定して、シュメール文明という名前を使うことにしよう。
シュメール文明は突然花開いたと思っている人が多い。
この国(及び民族)は大きな謎に包まれています。彼らは人類史上、最古の文明を興しました。そして、文字(楔形文字)・文学・王政・司祭・教育制度・医学・天文学・高層建築・運河・造船・集約農業・冶金術・商工業・貿易・法制・・・と、現代文明にも匹敵するありとあらゆるものを持っていたのです。それも、何と6000年以上も前に。更に謎なのが、これだけのレベルを持つ文明でありながら、先行文明がなかった事です。どう言う事かと言うと、「チンパンジーがある日突然、コンピュータを作り、そして、使いだした」様なものなのです。つまり、何の前触れもなく、ある日突然、シュメール文明は始まったと言う事です。
しかし、シュメール文明は、全くの無から生じたわけではない。メソポタミア地方には、ウバイド文化と呼ばれる先行文化があった。だから、まず話をそこから始めなければいけない。
紀元前6200年頃、小氷期と言ってよい急激な寒冷化が世界で起き、バルカン半島や東地中海は、旱魃に見舞われた。ボルガ川にはサマッラ文化という新石器文化があったが、この文化の担い手は、暖かい土地を求めて、紀元前5850年ごろに、以下の地図の赤茶色の矢印に沿って、メソポタミア一帯に南下したと考えられる。小氷期は紀元前5800年に終わり、以後ヒプシサーマル/クライマティック・オプティマムと呼ばれる長い温暖の時期が続く。
[Ubaid period - Wikipedia, the free encyclopedia]
紀元前5300-4750年頃、濃い茶色の矢印の方向から、セム系のアッカド人がこの地にやってきた。さらに、紀元前4850-4500年頃、オリーブ色の矢印に沿って、現在のバーレン近くにあるディルムンからシュメール人がやってきて、星印で記されているエリドゥに定着したと言われている。ただし、シュメール人の出自には諸説があって、本当のところはよくわからない。彼らの言語がアルタイ諸語に近いことを考えると、中央アジアから来たと推測できる。
シュメール人到着後、灌漑農耕と神殿建設を特徴とするウバイド文化が南から北へと広がっていき、最終的には、上の地図の肌色で示されている地域、すなわち、チグリス・ユーフラテス川の沿岸の全域で繁栄した。ウバイド文化の担い手はシュメール人であるという説が有力である。
紀元前3700年頃になると、ヒプシサーマルが終了し、寒冷化が始まる。同時に、北緯35度以北は湿潤化し、北緯35度以南の北半球は乾燥化した。このため、アナトリア高原での降水量が増え、チグリス・ユーフラテス川の水量が豊富になったため、乾燥化のため水を渇望する下流域の農民が大河に集中した。人々が集中すると、争いごとが増えるので、それを調停する宗教的権威の高い媒介者が必要となる。そして、指導者のもとでの組織的な灌漑農耕が必要になってくる。こうして、より大規模な灌漑農耕と神殿建設を特徴とするシュメール都市文明が紀元前3100年ごろに成立する。チグリス川は流れが急で、氾濫を起こしやすいので、都市国家は、主として、ユーフラテス川の流域に作られた。
シュメール文明が栄えたのは、メソポタミア南部であって、北部ではない。北メソポタミアの年間雨量が250ミリを超えるのに対して、南メソポタミアは100ミリ以下の乾燥地帯である。灌漑農耕と神殿建設がもっとも必要なところから都市国家が生まれたということである。南メソポタミアは、森林資源と地下資源が乏しかったので、灌漑で量産した穀物を輸出し、シリアや中央アジアから木材や金属を輸入していた。シュメール人の交易ネットワークはエジプトにまで及んでおり、当時の西アジアは、都市文明の名にふさわしい経済的分業を広域的に行っていた。
2. シュメール文明の滅亡
シュメール文明は、一時期、セム系の言語を話す異民族に支配されたことがあった。すなわち、BC2334年に、サルゴンが、シュメールの都市国家を併合し、アッカド帝国を建国した。アッカド帝国は、サルゴンの孫であるナラム・シンの時代に版図を最大にしたが、彼の死後、ザグロス山脈方面からアーリア系とみなされているグティ人が侵入し、衰退したと『アガデの呪い』などで伝えられている。はたして、アッカド帝国は、グティ人によって滅ぼされたのだろうか。ウィキペディアには次のように書かれている。
シュメール人やアッカド人等は、アッカド王朝末期の混乱の元凶がグティ人という蛮族の侵入にあると見た。現代の我々がそうであるように古代の人々もまた各種の歴史観を持ち、それにそって歴史を記述したのである。メソポタミアの人々はグティ人蛮族の侵入のために政治混乱が発生し平和が失われたとする見解を強く持っていた(今日これを「蛮族侵入史観」と呼ぶ学者もいる。)が、現在ではアッカド王朝末期の政治混乱はメソポタミア各地の都市の自律的発展による社会変化が強く影響しているとして、グティ人による「混乱」を過大評価すべきでは無いとする見解が次第に一般的になりつつある。
私もグティ人の侵入が、アッカド帝国を衰退させた根本的な原因とは考えていない。それは原因というよりもむしろ結果である。また「メソポタミア各地の都市の自律的発展による社会変化」というのも根本的な原因でない。確かに、シュメールの都市国家が中央から離反するようになったが、それはアッカド帝国衰退の結果であって、原因ではない。では、根本的な原因は何か。
ブライアン・フェイガンは、シリアの遺跡、テル・ライランの発掘調査から、紀元前2200年ごろ、メソポタミア北部で大規模な噴火があったと言う [Brian M. Fagan:The Long Summer: How Climate Changed Civilization, p.143]。火山灰は太陽光線をさえぎり、大気圏内の循環を弱め、メソポタミア地域は大きな農作物の被害を受けた。アッカド帝国は、この危機に対処できずに力を失い、内乱と外患を誘発した。ほぼ同じ頃、すなわち紀元前BC2185年頃、エジプト古王国が滅び、エジプトも内乱状態になった。
火山の噴火は、一時的な混乱をもたらしはするものの、文明を滅ぼすほどの影響を与えるわけではない。紀元前2112年に、ウルの軍事司令官であったウル・ナンムがグティ人の支配から自立して、ウル第三王朝を建国した。しかし、紀元前2004年にウル第三王朝が滅亡すると、この地域の中心は、ユーフラテス川のより上流に位置するバビロンやバグダッドに移り、シュメールの都市国家が文明の中心として復活することはなかった。また、シュメール人自身も姿を消した。その意味で、シュメール文明は滅んだということができる。
3. シュメール文明はなぜ滅んだのか
シュメール文明は、灌漑をやりすぎて塩害で滅んだという説が有力である。メソポタミア南部のような乾燥地帯で、灌漑を行い、大量の水を散布すると、灌漑用水は、いったんは土壌中の塩類を溶かしながら下方へと浸透するが、やがて毛管現象により上昇し、地表面にまで来ると、水分が蒸発するので、塩類だけが残る。そして、地表面に塩類が残留すると、強い浸透圧により、植物は根から水を吸収できなくなり、枯れてしまう。これが塩害である。
メソポタミアの刻文に「黒い耕地が白くなり」「平野は塩で埋まった」という記録があるから、塩害の被害は当時も深刻だったのだろう。シュメール人は、もともと灌漑で小麦を育て、それを輸出していたが、ウル第三王朝が滅んだ頃は、塩害に強い大麦を育てていたという事実がそれを雄弁に物語っている。シュメールの都市国家の一つラガシュでは、紀元前2350年から紀元前2100年にかけて、単位あたりの麦の収穫高が4割近く減っている [松本健 他:四大文明 (メソポタミア),p.72]。
安田喜憲は、ギルガメシュ叙事詩に描かれているフンババの殺害を引き合いに出しながら、メソポタミア文明による森林資源の搾取を指摘している [安田喜憲:森と文明―環境考古学の視点, p.45-55]。しかし、シュメール文明は、森林を伐採しすぎて滅んだわけではない。シュメール人が輸入していたレバノン杉は、ローマ帝国の時代になってもまだ豊富にあった。シュメール文明は、輸入する木材に不足して滅んだのではなくて、輸出する小麦に不足して滅んだのである。
エジプト文明やインダス文明は、シュメール文明とは異なって、灌漑をやりすぎて塩害に苦しんだということはなかった。エジプト文明やインダス文明では、肥沃な土壌を運んでくる川を自然に氾濫させ、水が引いた場所に作物を植えていた。川が恒常的に氾濫するような場所だと、塩分が完全に洗脱されるので、塩害は起きない。
ところが、シュメール人は、こうした自然の恵みを利用する方法は取らなかった。シュメール人は、雨季が始まる12月に種を蒔き、5月ごろに収穫していたのだが、収穫の時期と洪水の時期が一致するので、せっかくの収穫が水に流されて台無しになるということがしばしばあった。彼らにとって、洪水は恵みの水ではなくて、災難だった。またチグリス・ユーフラテス川は天井川なので、堤防を造っても決壊しやすかった。そこで彼らは、縦横に灌漑用水路を引き、流れを分散させ、洪水対策を兼ねた収穫増産を行ったわけである。
エジプト文明やインダス文明が自然を利用する文明であったのに対して、シュメール文明は、自然を克服する文明であった。そして人類で支配的になったのは、後者のタイプの文明である。シュメール文明自体は滅びたが、その文明のあり方は、後のメソポタミア文明、地中海文明、西欧文明に受け継がれて世界に普及している。エジプトも今では、伝統的な農業を止め、アスワンハイダムを建設して、大規模灌漑システムを導入し、塩害に苦しんでいる。パキスタンもインダス川流域で灌漑を行って、塩害を惹き起こしている。シュメール文明の教訓は生かされていないのである。
ねん土板の国の算数パズル―『ギルガメシュ叙事詩』をもとに (やさしい科学)




