連山は智恵(情報)と勇気(行動力)で世の中を変えるための読者参加型サイトです。
イースター文明

イースター文明を造ったのは、どこから来た民族だったのか。あの巨大な石の人像は、何のために作られたのか。あの巨石文明は、なぜ崩壊したのか。人々は、崩壊を防ぐために、どのような努力をしたのか。イースター文明にまつわる謎を解こう。

1. 誰がイースター文明を作ったのか

イースター島(ラパ・ヌイ)は、海底噴火によってできた、太平洋南東に位置する孤島で、火山噴火が終了して、しばらくして人間が定住を始めた。最初の定住がいつごろかに関しては諸説があり、西暦300年から1200年までの幅がある。

Six of the 15 Ahu Tongariki Moais
イースター島のモアイ。この祭祀場はアフと呼ばれる。
[Wikimedia:photo taken at 17:04, 29 March 2006 ]

イースター島での口承伝説によれば、ヒヴァ島(マルキーズ諸島の島)の首長であったホツ・マツアが、戦いに敗れて、あるいは別の説によると、ヒヴァ島が沈んだために、二艘のカヌーで、家族とともに、多くの動植物を携え、西方からイースター島に来たということになっている。

しかし、多くの人はこの伝承を信用しなかった。ヨーロッパ人がイースター島を発見した1722年当時、わずかな数の人々が、草葺きの小屋や洞窟で原始的な生活を送っていたことから、原住民がこのような巨石文明を築くことができたはずがないということで、ムー大陸説や宇宙人説などが出されたが、中でも多くの人の心を魅了したのは、ノルウェーの冒険家、トール・ヘイエルダールが提唱した南米説である。アメリカ大陸には、巨石文明があったから、その文明の担い手なら、イースター文明の担い手としてもふさわしいというわけだ。

ヘイエルダールは、この仮説を実証するべく、インディオが使っていた筏船と同様のコンチキ号で漂流実験を行い、イースター島よりも西にあるツアモツ諸島のラロイア環礁に到着した。但し、コンチキ号は、北上するフンボルト海流(ペルー海流)を自力で乗り越えたわけではなく、軍艦に曳航されたわけだから、この漂流実験が、筏船によるイースター島への南米人の渡航を実証したとは言いがたい。

ヘイエルダールは、イースター文明と南米の巨石文明の類似性に注目するのだが、彼が類似性として注目する性質の多くは、他のポリネシアの島々に見られる。例えば、アフに関していえば、ソシエテ諸島やマルキーズ(マルケサス)諸島にも、類似の石壇があり、その石壇ないしは祭祀場全体が「アフ」と呼ばれ、さらに、その上には、石製ないし木製の人像が立てられた。マルキーズ諸島のヒバ・オア島の石像は、腕をL字型に曲げ、腹に当てている点でモアイ像と似ている 。

Permission is granted to copy, distribute and/or modify this document under the terms of the GNU Free Documentation License, Version 1.2 or any later version published by the Free Software Foundation; with no Invariant Sections, no Front-Cover Texts, and no Back-Cover Texts.
古い時代の跪くモアイ像 [Photograped by Mila Zinkova in November of 1998]

典型的なイースター島のモアイは、最初の写真にあったように、細長い顔をしているが、最初からあのような形をしていたわけではない。上の写真は、ラノ・ララクにあるイースター島の古い石像である。これを見てもわかるように、モアイは、最初は、ビバ・オア島の石像と同様に、丸い顔をしていて、脚まであった(もしかすると、手と一体になった脚かもしれないが)。ここに、イースター島とマルキーズ諸島あるいはソシエテ諸島との連続性を見出すことができる。

イースター島の原住民は、その言語においても、DNAにおいても、完全にポリネシア人であり、過去において使用されていた石斧や釣針なども、ポリネシア的である [篠遠 喜彦,荒俣 宏:楽園考古学, 第一章]。だが、他方で、ポリネシアと南米の交易の証拠となる物もある。例えば、サツマイモである。サツマイモの原産は、南米のアンデス山脈であるが、イースター島をはじめとして、ポリネシアの島々では、広く栽培されている。

だから、ポリネシアと南米の交流の可能性も考えなければならない。フンボルト海流があるから、南米からイースター島に直接渡ることは困難かもしれないが、赤道海流に沿って、南米からマルキーズ諸島に行くことなら容易だし、赤道反流に乗って、マルキーズ諸島から南米に行くことも可能だったかもしれない。

木村重信氏は、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアの各オセアニア諸族の由来を次のような経路図で説明する。

巨石人像(モアイ)を追って―南太平洋調査の旅
太平洋における民族移動の経路と推定年代
[木村 重信:巨石人像(モアイ)を追って―南太平洋調査の旅, p.173]

この説によれば、オセアニア諸族の起源は、中国南部で、漢族に圧迫される形で、太平洋に進出していった。ポリネシアでは、サモアとトンガで最初に定住が始まり、その後マルキーズ諸島に移住し、ここを拠点に、ソシエテ、イースター、ハワイ、ニュージーランドへと分散していった。そして、南米とは、マルキーズで一時的な接触があったとするならば、ポリネシアでのサツマイモの栽培が説明できる。

2. アフとモアイは何のために作られたのか

イースターの文化がマルキーズやソシエテの文化と連続性を持つとするならば、前者において石壇と石像が持つ意味は、後者とほとんど同じと考えることができる。すなわち、石壇は、死者の遺骨を埋める墓であり、石像は、神的な祖先を象徴したものと考えることができる。実際、イースター島のアフの下からは人骨が見つかっているし、いくつかのアフがある特定の家系に属していることを原住民は記憶していた。

この点、イースター島のアフは、日本の祖霊社や合祀墓に近い。祖霊社というのは、子孫によって祖先代々の霊を祀るために、縁故の場所に設けられた祠である。合祀墓とは、表面に「何々家之墓」などと刻んだ墓碑を一基だけ建てて、その家代々の死者の遺骨を納める共同墓地のことである。

ソシエテ諸島のタヒチ島では、石像が所有地の境界を示すために立てられたりしていたから、家系のシンボルとして示差的機能まで持っていた。だから、モアイも、祖霊の像であると同時に、自分たちの家系集団のシンボルでもあるという、トーテムポール的な役割を果たしていたことだろう。しかし、この程度の理解では、モアイの宗教的意味を本当に把握したとは言えない。

モアイ崇拝の意味を知るためにも、モアイ崇拝の代替となった後継宗教の分析を行おう。イースター島では、資源の枯渇により、アフとモアイを建設することができなくなった1680年ごろ、軍事クーデターがあり、古い創造神であるマケマケを崇拝する新しい宗教が興り、それまで成人式などに行われていた鳥人(タンガタ・マヌ)儀礼が、宗教的意義を帯びるようになった。これは、モアイを建設し、倒しあって実力者を決めるよりもはるかに資源節約的な競争的儀式だった。

鳥人儀礼は、毎年9月に、戦士階級が主催した。彼らは、体力のある若者を選び、島の南西端にあるオロンゴ岬から対岸のモツ・ヌイ島まで、フカの群れる荒海を泳いで渡らせた。途中で命を落とす者もいたが、若者たちは、モツ・ヌイ島で、アジサシが産む最初の卵を手に入れようと競い合った。卵を手に入れて最初に泳いで戻ってきた若者の所属する地域集団は、鳥人(タンガタ・マヌ)の称号を取得し、その年の宗教的・世俗的権利を掌握する。

Chile: Rano Kau, Rano Kau and the Orongo Ceremonial Village : View from the tip of the island. This is the island they used to swim to as part of the Birdman Cult. The islands are Motu Nui, Motu Iti and Motu Kao Kao - just off Cabo Te Manga. The last ceremonies took place in 1866.
オロンゴ岬から見下ろしたモツ・ヌイなどの三島。オロンゴと海は、海抜200メートルの絶壁で隔てられ、モツ・ヌイ島までは、2キロメートルの距離がある。 [Photo taken by Ian Sewell, July 2006 View from the tip of the island]

鳥人という称号は、鳥の卵を手に入れたという以上の意味があると私は思う。上の写真を見てほしい。青い海はまるで青い空のようであり、青い海を泳ぐ若者は、まるで青い空を飛ぶ鳥のようだ。海に浮かぶ島は、羊水の中の胎児のようであり、空の彼方にある異界のように見える。自分の若者が、この世とあの世を往ったり来たりすることができるということは、異界との通信能力があるということであり、それゆえ、鳥人は、宗教的権威を持つことができる。

日本の神道でも、人は死んだ後、山中や海上の他界といった生者の世界のすぐ近くにいて、盆や正月に子孫の元に帰ってくるとされている。そして、祖霊とこの世の子孫を媒介する神職や巫女は、宗教的権威を持つ。日本の天皇の本来の役割は、そうした媒介者である。

オロンゴの岩面には、マケマケ・鳥人や海・空を往来する動物とともに、女陰の絵が刻まれている。テペウの井戸の岩面にも、マケマケや鳥人とともに女陰の絵が刻まれて、その井戸の水を飲むとマナ(神秘的な力)を得るとの伝承がある [木村 重信:巨石人像(モアイ)を追って―南太平洋調査の旅, p.143] 。井戸が膣で、水が羊水だとするならば、あの世である胎内に戻って、羊水を持って帰ってくることで、マナが得られると考えられているわけである。

人は胎内から産まれ出てくる。だから、死ねば、胎内に戻ると考えることは極めて自然である。胎内があの世だとするならば、ペニスは、この世とあの世をつなぐ橋である。ここからペニス信仰が生まれる。鳥人信仰の前にあったモアイ信仰も、この信仰に基づいているのではないだろうか。そう考えれば、なぜ、モアイの顔が長細くなっていったのかが理解できる。

A close up of the moai at Ahu Tahai, restored with coral eyes by the American archaeologist William Mullo.
Picture taken by Bjarte Sorensen. Please acknowledge name of photographer.

左の写真[Bjarte Sorensen:A close up of the moai at Ahu Tahai]に見られるように、後期のモアイの頭上には、プカオと呼ばれる赤色凝灰岩でできた帽子のようなものが載せられている。プカオには、モアイの頭の形状に合わせてくぼみがあり、さながらペニスを挿入された女陰のようだ。前期のモアイの頭には、プカオがないが、そのことは、前期のモアイにペニス的な意味がなかったことを意味するわけではない。プカオがない場合のモアイは、母なる大地に突き刺さったペニスとして見ることができる。だから、プカオが付けられるようになった背景には、あの世が地下ではなくて、天上にあると思念されるようになったことを示唆している。こうした異界観の変遷は、他の文化にも見られることである[永井俊哉:あの世は縄文時代どこにあったのか]。

モアイは、以下の地図に示されているように、海岸の近くに立てられている。

This work was previously under Public Domain. It has been digitally enhanced and/or modified. This derivative work has been (or is hereby) released into the public domain by its author, Pascal. This applies worldwide.
イースター島の地図[Wikipedia

モアイは、海と陸の境界上に位置する。このことは、モアイが、あの世に相当する海とこの世に相当する陸との架け橋であることが意識されているからだろう。この点でも、モアイはペニス的なのである。

3. なぜイースター文明は崩壊したのか

花粉分析の研究から、イースター島は、かつては、椰子の木が生い茂る、豊かな森の島であったが、1300-1200年前ごろから、椰子の木が減少し始め、この島にはもともとなかったオオバコ、ナデシコ科、ギシギシ属など、牧畜や農耕に関係する植物が増え始めたということがわかっている[Flenley, J.R.et al (1991) The Late Quaternary vegetational and climatic history of Easter Island, Journal of Quaternary Science 6:85-115]。これは、イースター島に上陸した人々が、農耕牧畜のため、カヌーや家屋などを作るため、燃料を得るために、とりわけ、アフとモアイの建造のために、森林を大量に伐採したためと考えられる。

イースター島の森林はもともと消滅しやすい素地を持っていた。イースター島には高い山がなく、中緯度高圧帯に位置するために、降雨量は少ない。また、周囲の陸地と隔絶しているので、無機栄養分となる火山灰が他から供給されることもない。人口が増えすぎたからといって、容易に他の島に移住するということもできない。

森林破壊は、16世紀から17世紀にかけてピークに達した。このころ、部族間の紛争が起こり、モアイを倒し合う破壊合戦が起き、人肉食すら行われたと伝えられている。木材不足のため、カヌーが作れなくなり、他の島に逃げることもできなくなった。最盛期には、イースター島の人口は1万人前後となり、千体近いモアイが建てられたと推定されているが、1774年にイギリス人のジェームズ・クックがこの島の調査をした時には、森林は消滅し、モアイは半数が倒され、人口は600-700人程度になっていたと言われる。持続不可能な資源の搾取が惹き起こした悲劇である。

しかし、悲劇はそれで終わらなかった。1836年頃、ヨーロッパ人がもたらした天然痘で、多数の島民が命を落とし、さらに生存者の半数がペルーによって拉致され、奴隷として競売にかけられた。1872年には、島民の数は111人にまで減っていた。また、ヨーロッパ人が持ち込んだ羊が牧草を食べ、土壌浸食が起き、自生植物のほとんどが1934年には姿を消した。現在、生態系の回復が試みられているが、一度破壊された生態系を元に戻すことは容易ではない。

4. なぜ森林伐採が続けられたのか

それにしても、なぜ、あれほど高度な巨石建築物を造った文明人が、森林を破壊すれば、自分たちの生活が脅かされることになるという程度のことがわからなかったのだろうか。『文明崩壊』の著者、ジャレド・ダイアモンドもそうした問いを立てている。

I have often asked myself, "What did the Easter Islander who cut down the last palm tree say while he was doing it?" Like modern loggers, did he shout "Job, not trees!"? Or:"Technology will solve our problems, never fear, we'll find a substitute for wood"? Or: "We don't have proof that there are't palms somewhere else on Easter, we need more research, your proposed ban on logging is premature and driven by fear-mongering"?

私は、しばしば「最後の椰子の木を切り倒したイースター島民は、そうしながら何と言ったのだろうか」と自問した。現代のきこりのように「これは仕事なんだ、木なんてどうでもいい」と叫んだのか。あるいは「技術が問題を解決してくれる。心配無用。そのうち木の代わりが見つかるさ」なのか。あるいは「イースター島の他のどこかに椰子の木がないという証拠はない。もっと調査が必要だ。君の伐採禁止令は時期尚早であり、扇動屋にたぶらかされた産物だ」なのか。

これは森林伐採を続ける現代人に対する皮肉なのだろうが、当時のイースター島民が考えていたことは、このどれでもないだろう。彼らは、資源となる生命が次々と死に絶えていくという危機を悪化させるためにではなくて、その危機から救われるためにモアイを建てていたはずだ。彼らが、あの世とこの世の通路であるモアイに期待していたのは、祖霊があの世からこの世へ回帰することで、生命を死から再生させるマナであったに違いない。

それならば、なぜモアイ像は倒されたのか。ダイアモンドは、次のように言う。

Easter Islander's toppling of their ancestral moai reminds me of Russians and Romanians toppling the statues of Stalin and Ceau?escu when the Communist governments of those countries collapsed. The islanders must have been filled with pent-up anger at their leaders for a long time, as we know that Russians and Romanians were. I wonder how many of the statues were thrown down one by one at intervals, by particular enemies of a statue's owner, as described for Paro; and how many were instead destroyed in a quickly spreading paroxysm of anger and disillusionment, as took place at the end of communism.

イースター島民が祖先伝来のモアイ像を倒したことを聞いて私が思い出すことは、ロシア人やルーマニア人が、これらの国々の共産主義政府が崩壊した時に、スターリンやチャウシェスクの像を倒したことである。島民は、ロシア人やルーマニア人のように、長い間鬱積した指導者への怒りに満ちていたにちがいない。パロに関して記述されていたように、像の所有者の特定の敵によって、一つ一つ、間隔を置いて倒された像はいくつあったのだろうか、そうではなくて、共産主義の終末で起きたような、怒りと幻滅の爆発的な発作の中で、破壊された像はいくつあったのだろうかと思う。

パロというのは、最後に倒されたモアイ像で、ある妻が夫の慰霊碑として建造したパロが、妻の一族の敵によって倒されたと伝えられている。これに対して、自分の家系のモアイ像を自分たちで倒したという話はない。だから、ロシア人やルーマニア人が、スターリンやチャウシェスクの像を倒したというのとは、わけが違う。一番最後ですら、モアイ像は、幻滅から倒されたのではなかったのだ。島民は、宗教を変えることはしても、宗教を捨てることはしなかった。

モアイ像の倒し合いは、むしろ、多神教が一神教へと収斂していくプロセスで生じた神々の争いではなかったのか。モアイは、自分たちの子孫しか庇護しないから、モアイ崇拝は、血縁関係に基づく多神教にとどまる。資源が豊富で、各部族が共存できる時は、多神教が維持される。しかし、ちょうど、経済環境が悪化すると、企業が淘汰・整理されるように、生活環境が悪化すると、神々も淘汰・整理されるようになる。あるいは、少なくとも、神々に序列ができる。

私がそう想像するのは、モアイ崇拝の後に生まれた鳥人儀礼が、そうした構造を持っているからだ。モアイ崇拝では、司祭が世襲で地位を引き継いでいた。だが、新たに生まれた宗教では、最高神が実力で決まる。実力で決まるといっても、モアイ像を建てて倒すというような浪費的なことはしない。その意味では、私たちは、ここに、多神教から一神教への宗教の合理化の一例を見て取ることができる。

関連記事紹介

子供が成長するにつれ、関心が母から父へと移っていくように、人類もまた、文明時代になると、地母神に代わって天父神を崇拝するようになる。かつて地下や海にあった理想郷としての地母神の子宮は、地獄へと貶められ、理想郷は、天国に求められるようになる。母なるものへのノスタルジックな思いは、抑圧され、忘れ去られていく。

イースター島の悲劇―倒された巨像の謎

イースター島の謎 (「知の再発見」双書)

必読環境考古学ハンドブック

近未来の日本を知りたい人は→人気ブログランキングへ

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: イースター文明

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://renzan.org/mt-tb.cgi/410

【月別アーカイブ】

【連山携帯サイト】

連山携帯サイトQRコード
携帯アクセス解析


Powered by Movable Type 4.27-ja