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世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略(下)

今回は、新春特別企画の最終回ということで、日本の過去のインド洋戦略とその蹉跌についての検討をふまえ、「もし江田島孔明が、1941年12月の時点で日本の陸海軍の統帥権を掌握していたら、どのように戦ったか」という、シミュレーションをしてみたい。独断と偏見、思い込みに裏打ちされて、「歴史のIf」を検討することほど楽しいものはないので、しばし、お付き合いいただきたい。

まず、太平洋戦争の本質とは何だったのかについて、考えてみたい。

太平洋戦争について、「自衛戦争」だったとか、「植民地解放戦争」だったとの主張もあるが、私は、そのような考えは取らない。

自衛戦争かどうかについては、戦略の観点から、実は、大した意味は持たない。戦争は勝たなければならず、自衛戦争でさえあれば、敗北が正当化されるものではない。

植民地解放戦争かどうかについては、単に結果論として、戦後、アジアにおける西欧の植民地が独立したことはあったとしても、それは、本来の目的ではなかったため、検討には値しない。

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何故なら、当時の日本の戦争遂行目的は明らかに朝鮮や台湾や満州の植民地支配を前提にしていたからだ。何よりも、昭和天皇陛下の出された開戦の詔勅に、戦争の目的は帝国の自衛とは書いてあっても、植民地解放とは一言も述べておられない。

私が見るところ、日本が太平洋戦争に突入し、国家消滅寸前の大敗北を喫したのは、ソ連コミンテルン-アメリカ民主党-英国国際金融資本をつなぐ「ユダヤネットワーク」の国際的謀略に嵌められたという事が真相だ。これが、前号で述べた、国際金融資本と日本との代理店契約である「日英同盟破棄」の論理的帰結なのだ。

この点を検討してみたい。前世紀の失敗である太平洋戦争の「真の意味と敗因」を検討し総括することは、次の戦争に勝つために、絶対に必要なことだ。

歴史的に見ても、徳川家康は、生涯最大の敗戦である、武田信玄との三方が原の合戦の折、浜松城に逃げ帰った際の憔悴しきった姿を絵師に描かせ、終生それを眺めては、戒めとし、教訓とした。家康は、晩年、「天下を取れたのは武田信玄のおかげ」と述べたという。

真の勝利を得るには、このような観点から、敗北からは、可能な限り戦訓や教訓を学び、次の戦争に生かすべきなのだ。これが死んでいった300万もの将兵や国民に報いる唯一の道だ。

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大日本帝国海軍が太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に開発した特攻兵器の桜花(おうか)。最終的に10回の出撃が行なわれ、桜花特攻での戦死者はパイロット55名、その母機の搭乗員368名に上った。これに対し戦果は撃沈1隻、損傷5隻。[WWII Imperial Japanese Navy Aircraft Photos]

 当時の世界情勢を概観してみると、ソ連コミンテルンは、スターリンの指揮下、全世界の国際共産主義国家化をもくろみ、そのため以下の指令を日米中ソの共産スパイに下した。

①政府、軍部、官庁、財界、大学、マスコミの主要ポストにスパイを潜らせ、シンパをつくれ。

②日本軍を中国国民党との泥沼戦争に引きづりこめ。決して停戦させてはならない。

③日本の目をソ連から米国に向けさせ、日米戦争をしかけ、米国にたたきのめさせろ。

 まず、日米交渉の経緯は、史実の通りであり、ハルノートを受領した時点から、始めよう。

 周知のように、ハルノートを受領した時点での戦略状況は、シナ大陸での戦争が膠着していた。詳細は省くが、このシナ大陸からの撤兵問題が日米交渉の最大の争点であった。

帝国陸軍が問題視したのは、ハルノートの次の一節だ。
"3. The Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indochina."日本国政府は、支那及び印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及び警察力を撤収すべし 

ハルノートの原案は、ハリーホワイト財務省次官補が作成したホワイト・モーゲンソー案である。ハリーホワイトは、モーゲンソー財務長官の腹心として、ドイツの非軍事、工業化を掲げたドイツ戦後処理についての「モーゲンソー案」を作成し、戦後の国際通貨体制を定めたブレトンウッズ会議にアメリカ代表として出席、国際通貨基金(IMF)創設の中心的役割を果たした。だが1948年夏アメリカ下院非米活動委員会において、E・ベントレーとW・チェンバース(いずれも元米国共産党員)は、米国共産党(コミンテルン米国支部)やアメリカ非公然組織長のイクサ・アフメーロフ(ソ連人民委員部)、ボリス・バイコフ大佐(ソ連赤軍第四部)が、アメリカ政府内に構築したソ連諜報網の全容を告発し、ホワイトがソ連のスパイであることを指摘したのである。ホワイトは公聴会でソ連スパイ疑惑を否定したが、その直後の8月16日、ジギタリスを大量服用し不可解な死を遂げてしまった。

事実は、彼個人ではなく、ルーズベルト大統領の側近のほとんどは、ソ連のスパイ、すなわち共産主義者であり、戦後のレッドパージで粛清された。

これは、アメリカ民主党とソビエト共産党が、同じように国際金融資本によって企画され、立ち上げあれた実験的管理国家だということを理解すれば、分かるであろう。

国際金融資本はレーニンに資金援助を与え、ロシア革命を起こし、米ロ両国の連絡役にドクター・ハマーと通称されるユダヤ人、アーマンド・ハマー(アメリカ共産党の創始者の息子)を任命した。一九二○年代早々のことである。ハマーはモスクワに数年間滞在し、レーニンを含むソ連の最高幹部と親密な関係を結ぴ、また、アメリカ情報部がソ連の大物スパイとみなしていたロシア人女性と結婚した。ハマーは、一九九○年に死去するまで、七○年にわたって米ソ間を数え切れないほど旅し、ソ連のトップと、アメリカの指導層を結ぴつけているが、彼はまたADL(すなわちプナィ・プリス)と緊密な関係にあるといわれる。

歴史的背景として、アメリカがシーパワーとして名乗りを挙げたのは、第一次大戦の戦勝国になり英国に対する多額の借款を保有したからだ。かの国は、本来、建国の理念であるモンロー主義(孤立主義)を国策として欧州への不介入を貫くはずだったのだがこの戦略転換の背後になにがあったのか?私はアメリカにおける金融資本家の政策への影響を看過できない。
 1929年NYで発生した大恐慌の結果、世界がブロック化していく中で日独といった後発資本主義国が武力に訴え生存圏を確保しようとする端緒となったしかし、大恐慌そのものの評価について、世界経済に与えたインパクト以上にアメリカにおける連邦政府の存在がクローズアップしてきたことは看過し得ない事実である。もともと、合衆国とは州に主権があり各州の主権を制限しない範囲で連邦に外交や安全保障を委ねてきたのである。そして外交的孤立(モンロー主義)を国是としていた。しかるに民主党のルーズベルト大統領のとったNewDeal政策は連邦主導の経済政策であり、この時期FBI、FRBを初めとする連邦諸機関が創建され強化されているのである。まさしくアメリカにおける連邦主権の管理国家が完成したのがこの大恐慌期なのである。

建国の父たちの理念、州の連合により中央集権ではないキリスト教原理主義に基づく理想郷を築くことはこの時期死んだということが言えよう。ルーズベルト大統領のとった政策は違憲判決が多数出されていることも忘れてはいけない。
 この視点は決定的に重要である。その後アメリカは連邦政府に引き連られモンロー主義という伝統的孤立主義の国策を捨て、世界に市場を求め、干渉していくのである。戦後の海外への米軍展開、駐留は合衆国憲法になんの根拠もない。そして、本来根拠がない事項は州に留保されるとの憲法上の規定(修正第10(州と人民の留保する権利)本憲法によって合衆国に委任されず州に対して禁止されなかった権利は、各州と人民に留保される。)があるが、米軍の海外駐留展開に対して州が同意を与えた形跡はない。はっきりいえば、海外市場獲得のため、NYの金融資本家がワシントンを通じて、アメリカを操作する契機を与えたのが大恐慌なのである。そして、彼らの究極の目的は中東と中国である。

 そして、国際金融資本は、当面の敵である、ナチスドイツを打倒するため、アメリカを欧州に参戦させる必要があった。しかし、アメリカの世論は、徹底的に反戦であり、ルーズベルトは、参戦しないことを公約にして、選挙に勝っており、欧州への参戦は、簡単にはいかなかった。

 そこで、注目されたのが、ナチスドイツと同盟関係にあった日本だ。 国際金融資本は考えた。日本をアメリカにぶつけ、アメリカを参戦させれば、対独戦は勝てる。ソ連にとっても背後を日本につかれる恐れがなくなるため、願ったりだ。毛沢東や蒋介石にしても対日戦勝利の可能性は高くなるだろう。

 このような中で発生したのが、朝日新聞記者尾崎秀実とソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲによって起こされた「ゾルゲ事件」だ。

コミンテルンは第6回大会で、「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ」、「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」と決議していた。日独と米英の間での「帝国主義戦争」が始まれば、共産主義者の祖国ソ連は安泰であり、また敗戦国ではその混乱に乗じて、共産主義革命をすすめることができる、という戦略である。
 
1935(昭和10)年8月の第7回コミンテルン大会では、中国共産党と国民党が手を組み日本と戦うという方針が決定された。蒋介石はもちろん、毛沢東でさえも知らない決定だった。中国共産党に対して、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことが命ぜられた。中国共産党は8月1日「抗日救国宣言」を発した。一切の国内闘争の即時停止、全面的抗日闘争の展開を企図したのである。これは中国を使って日本軍をソ満国境から遠ざけようという戦略である。
 
1936(昭和11)年12月に、突如として西安事件が起こった。共産軍掃討を続けていた蒋介石が、「抗日救国宣言」に呼応した腹心・張学良に西安で監禁されたのである。周恩来ら中国共産党幹部が西安にやってきて、蒋介石との交渉を行った。以後、蒋介石は共産軍との10年におよぶ戦いを止め、国共合作が実現した。その後、日華事変、太平洋戦争(大東亜戦争)と事態はソ連の思惑通りに進んでいくのである。

 コミンテルンの指示を知っていた尾崎は、監禁された蒋介石の安否が不明の段階から、「中央公論」に「蒋介石が今後の国共合作を条件に、無事釈放されるだろう」と予測する論文を発表した。この予測が見事に的中して、尾崎は中国問題専門家としての地位を固めた。

 1937年(昭和12年)の4月ごろから尾崎は「昭和研究会」に入り、「支那問題研究部会」の中心メンバーとして活躍していた。この「昭和研究会」は軍部とも密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、大政翼賛会創設を推進して、一国一党の軍部官僚独裁体制をつくり上げた中心機関である。
 昭和13年4月、尾崎は朝日新聞社を退社、近衛内閣の嘱託となる。首相官邸の地階の一室にデスクを構え、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようになった。
 
尾崎は「中央公論」14年1月号に「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」を発表した。これに呼応して、陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を発表する。
 
尾崎は「中央公論」14年5月号での「事変処理と欧州大戦」と題した座談会のまとめとして次のような発言をしている。
「僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(重慶へ移転した蒋介石政権)に対抗し得る政権をつくり上げること、・・・さういふ風な一種の対峙状態といふものを現地につくり上げて、日本自身がそれによって消耗する面を少なくしていく・・・さういう風な条件の中から新しい---それこそ僕等の考へている東亜共同体--本当の意味での新秩序をその中から纏めていくといふこと以外にないのじゃないか。」
 
尾崎は、中国に親日政権を作り、それをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとしたのである。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループは親日政権を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、共倒れにさせて、日中両国で共産革命を実現しようという計画であった。

 近衛首相は、事変が始まった後、早期停戦を目指してドイツを仲介国とする交渉を行ってきたが、昭和13年1月には新たな親日政権の成立を期待して、「今後国民党政府を相手にせず」という第一次近衛声明を発表していた。同年11月、近衛は日本・満洲・支那3国の連帯を目指した「東亜新秩序」建設に関する第二次声明を発表。これは尾崎らの「東亜共同体」構想そのものである。この声明のなかで「国民政府といえども従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序建設に来たり参ずるに於ては、敢へてこれを拒否するものにあらず」と汪兆銘の動きに期待した。

まさに「見えない力にあやつられていたような気がする」という近衛の述懐通り、近衛内閣は尾崎とその背後の国際共産主義者すなわちコミンテルンの描いた筋書きに完全に乗せられていたのである。

 尾崎は、当時の近衛の嘱託という立場を利用して政策決定に影響を加えた。ゾルゲ・グループのもたらした情報はソビエトが対独戦を戦上で不可欠であった。1941年10月、日米開戦の予告をモスクワに通信したのを最後にして、彼とそのグループは検挙され、彼らのほとんどが終戦をまたずに刑死・獄死した。しかし、真の問題は、このコミンテルンのエージェントは、尾崎やゾルゲだけではなく、もっと広くかつ、深く、当時のエリートや支配者に入り込んでいた事だ。この事は、つい最近まで、国立大学で「民青にあらずんば、人にあらず」という風潮があったことでも、分かるであろう。

はっきり言えば、当時の日本は、革新官僚、昭和維新を目指す陸軍青年将校、知識人の主流は全て、「統制経済の共産主義者」であり、「国際共産主義ネットワーク」に牛耳られていたといっても過言ではない。これは、日本のみならず、大恐慌以降の世界的傾向だ。

例えば、アメリカでは、戦後、マッカーシー上院議員(共和党)が「205人の共産主義者が国務省職員として勤務している」と告発したことを契機に、ハリウッド映画界などをも巻き込んで大規模な「赤狩り」を行った。

後にはニューディーラーまで対象となった。当時のアメリカ国内では現実にコミンテルンがマスコミや政財界、軍部まで取り込み工作活動を行っており、マッカーシーらの活動は、手法に強引さはあったものの、当時のコミンテルン人脈を断ち切ったと評価されている。

英国は周知のように、フィルビーやマクリーンのような情報組織や外務省の大幹部がソ連のスパイという有様だ。

なお、チャーチルは、後に第二次大戦回顧録で、日本の対米開戦すなわち真珠湾攻撃の知らせを聞いて「これで勝てる」と確信したという。真珠湾は、敗戦寸前だった英国を救う効果があった。

こういった世界的な背景で日本の南進を決定付けた「ゾルゲ事件」を理解すべきだ。
ここまで読んでこられた賢明な読者はお気づきになられたであろう。そう、新春特別号その1、その2で述べたような17世紀のキリスト教布教と20世紀の共産主義の拡散とは、同じように、国際金融資本が当該国を精神面で支配するために使ったツールなのだということを。
そう考えると、国際金融資本の意図を正確に見抜き、キリシタンをご禁制にした17世紀の指導者と、共産主義者に国家の中枢を乗っ取られた20世紀の指導者と、どちらが優秀であったか、議論の余地は無い。
このように、太平洋戦争開戦にいたる過程をつぶさに検証すると、ソ連コミンテルン-アメリカ民主党-英国国際金融資本をつなぐ、「ユダヤネットワーク」の国際的謀略が確かに見えてくる。

近衛は、後にそのこと気がついたようで、昭和20(1945)年2月14日、天皇陛下に以下のごとく奏上したが、時既に遅しだ。
「翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観有之候、すなはち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する革新官僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候。」
 
「これを取り巻く一部官僚および民間有志は(これを右翼といふも可、左翼といふも可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)意識的に共産革命まで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存候。」

このように、太平洋戦争の本質とは、シーパワー陣営に属していた日本が、代理店契約を解除し、独自ブランドを立ち上げようとしたところ、英米ソ中の包囲網を巧妙に敷かれ、袋叩きにされ、その上で対独開戦の正当化をしたということだ。この、国際金融資本の書いたシナリオに気づいたのは近衛だけではなかった。戦後、日本占領軍司令官マッカーサーも気づいたようだが、彼は、朝鮮戦争を巡るトルーマン大統領との確執、はっきり言えば、アメリカが国際金融資本に乗っ取られていることへの批判が根底にあったため、解任された。このことに見られるように、米軍とは、常に、国際金融資本への批判勢力だ。

それでは、このような理解を前提にして、昭和16年12月の時点で、どのような戦略をとり得たかを検討してみる。

まず、上述のハルノートであるが、識者の中には、これは最後通告だと述べるものがいる。しかし、実際は、履行期限すら明示されたものでなく、単なる「試案」にすぎない。その程度のものに対して、過大に反応し、「英米開戦已む無し」と短絡した当時の陸軍は、まさに脳内お花畑状態であり、国際金融資本にしてみれば、赤子の手をひねるようなものであっただろう。

確かに、ハルノートは日本を挑発するものであった。わたしなら、長城以南のシナ本土から段階的に撤兵をした後、ハルノートを「徹底的に黙殺」する。そうすれば、アメリカは面と向かっては日本を非難できない。そして、他の挑発を考えてくるだろうが、それも「徹底的に黙殺」する。これは、「韓信の股くぐり」なのだ。

1.太平洋戦争開始(1941年12月)

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そして、黙殺で得た時間を使って、インドネシアとシンガポールを攻撃し、その上で、連合艦隊をインド洋に遊弋させ、英国東洋艦隊をインド洋から追い払う。そのためには、インド洋の英国東洋艦隊の根拠地を一掃し、逆に帝国海軍の基地とする。そうして、東南アジアとインド洋を支配した後、余勢を駆って、スエズ運河と豪州を落とす。当然、下記のようなアメリカ国内で反戦運動を煽る工作も行う。

<参考>
------------引用--------------
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8B%E3%82%89%E6%95%91%E4%B8%96%E4%B8%BB-%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%82%A2-%E3%81%8C%E6%9D%A5%E3%81%9F-%E5%87%BA%E4%BA%95-%E5%BA%B7%E5%8D%9A/dp/4104468010
日本から救世主(メシア)が来た
太平洋戦争前、「白人支配の打倒」を訴えて黒人を扇動し、反米破壊活動を続けた1人の在米日本人がいた。本書は日本、米国でもほとんど知られていない中根中氏という人物にスポットを当てたノンフィクションだ。
 中根氏は「日本人は同じ有色人種の黒人を解放するために、この国(米国)に乗り込んでくる。日本が戦争に勝てば、黒人は自由になれる」という言葉で、人種差別に苦しむ米国の黒人たちを魅了した。彼は黒人たちから救世主のように慕われ、最盛期には10万人もの黒人を組織したという。
------------引用--------------

2.南方作戦(1942年3月頃まで)

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これで、戦略的持久とナチスドイツロンメルアフリカ軍団と、スエズでの握手ができ、インド洋の支配が完成すると、中東地域の日本支配も可能になるだろう。結果としてユーラシア大陸封鎖網が完成する。すなわち、かっての、ポルトガルや英国といったシーパワーがインド洋を支配することで世界の覇権を握ったこ戦略と同じ「チョークポイント支配戦略」をとるのだ。

3.インド洋作戦開始(1942年5月頃まで)

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史実としては、開戦直後の日本軍は、マレー沖海戦で、英国の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスを撃沈し、バタビア沖海戦勝利で東南アジアの制海権を握り、ジャワ島を攻略し、第一段作戦である南方資源地帯占領が終了した。
しかし、日本側としては南方作戦が予想よりも早く終了したため、第二段作戦の検討がされ始めていたが、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と、オーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対立し、最終目標をどことするのかが決まらない状態であった。
この状況において、虎の子の空母機動部隊(南雲機動部隊)をインド洋に転用し、戦力の復活しつつあった英国海軍東洋艦隊を撃滅すべく行われたのが、インド洋作戦である、セイロン沖海戦だ。大本営では、1、セイロン島攻略、2、当時北アフリカで快進撃を続けていた独・伊との中東での連携(西亜打通作戦)も検討されたが、インド洋における連合軍の基地航空戦力等を考慮して中止され、セイロン島攻撃を含むインド洋作戦のみ実施されることとなった。
結果として、コロンボ基地並びにトリンコマリー軍港を破壊された英軍東洋艦隊はインド洋での展開を断念し、アフリカ東岸のマダガスカル島まで退避した。このころ地中海の戦況は枢軸国側有利であり中東、インド方面の連合国側船団は地中海-スエズ運河ルートではなく喜望峰-インド洋のルートへ迂回していた。マダガスカル島はこの迂回ルートの途上に位置しておりマダガスカル島の港や飛行場が日本軍に占拠されると中東及びインド方面との補給路が絶たれる恐れがあった。
英国の撤退により、英国海軍は日本軍がマダガスカルを前進基地として使用する可能性に対処しなければならなくなった。日本軍がヴィシー政府と協力してマダガスカル島の基地を使用できるようになれば、日本軍の航空機や潜水艦がマダガスカル島に配備され、連合軍の商船のみならずマレー沖海戦で戦艦を撃沈された英国海軍の艦隊にとっても脅威となることが予想された。
当時、日本海軍の潜水艦は各国の潜水艦の中で最長の航続距離を持っており、16000㎞以上もある潜水艦もあった。もし、それらがマダガスカル島の基地を使用できたら連合国の太平洋、オーストラリアから中東、南大西洋の範囲に広がる海上交通網に影響することになるのであり、それまで影響の少なかったため守りが手薄であった西インド洋、南大西洋が日本海軍の攻撃にさらされることも予想された。
セイロン沖海戦の結果、英国艦隊は日本艦隊を攻撃する機会をとらえ得ず、逆に機動部隊の空襲を恐れて旧式戦艦等の低速部隊をアフリカ東岸に後退させた。さらに5月31日 戦艦ラミリーズがマダガスカル島のディエゴワレズで日本の特殊潜航艇の雷撃を受け大破した。
これによってインド洋東西両側間の制海・制空権は、一時完全に日本軍の掌中にあった。しかし、間もなく日本機動部隊はミッドウェー島攻撃のため、太平洋方面へと移った。
これも、ドーリットルにより東京を空爆されたため海軍の面子を傷つけられたことから、泥縄的に立案された作戦であり、結局は惨敗し、虎の子の空母四隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と精鋭パイロットを多数失い、主導権をアメリカに奪われるだけの結果に終わった。
そして、連合国はマダガスカル島への上陸作戦(アイアンクラッド作戦、Operation Ironclad)を実行し、全島を支配した。
このように、日英の海戦では、日本が圧勝しているのだから、真珠湾攻撃やミッドウェー攻撃といった太平洋作戦を行わず、陸軍戦略に従い、海軍もインド洋作戦に全軍を投入していたら、マダガスカルどころか、南アフリカまでも取れたであろう。その上で、インドネシアの石油を押さえ、戦略的持久戦の持ち込むのだ。
つまり、このインド洋作戦成功の骨子は、上述の「韓信の股くぐり」を徹底できるかによる。国内が反戦で固まっているアメリカに参戦の口実を与えてはいけない。単純にそれだけだ。

4.インド洋作戦後半(1942年後半)

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何よりも、帝国海軍の対米戦略は、本来、「西太平洋でのアメリカ太平洋艦隊の迎撃」だったのだ。
それを、何をとち狂ったか、山本五十六が独断で軍令部の反対を押し切って、リスクの非常に高い真珠湾やミッドウェーといった奇襲攻撃を採用したところに、最大の失敗がある。
戦略的見て、当時の軍事的常識からすれば、日本の戦争目的は石油・ゴムなどの南方資源を確保することにあり、アメリカ軍は大日本帝国海軍がフィリピンに攻め寄せると考えており、ハワイが攻撃対象となるとは考えていなかった。
つまり、戦略的に考えて、ハワイ攻撃でどういう戦略目標を達成したかった、全く不明だ。真珠湾攻撃は、日本海軍の大勝利のように言われているが、実際は、陸上の石油備蓄設備や空母といった戦略的価値の高いターゲットを無傷で逃しており、かつアメリカの世論を反戦に傾けるという狙いは全く逆の効果(Remember pearl harbor)を生んだ。
これで、真珠湾攻撃の目論見であった、「一撃講和論」は、潰えたのだ。こうなると、彼我の生産力が問題になるだけだ。これが、最大の戦略上の失敗だ。
思うに、上述のように、当時の日本の中枢部がコミンテルン操られていた様に、海軍上層部、中でも山本五十六もそのような謀略に引っかかり、操られていたのではないだろうか。そう考えなければ、真珠湾攻撃は、全く説明がつかない。この点に関しては、現時点で、確実な証拠はないが、いずれ、明らかになるであろう。実際に、真珠湾攻撃は、米国民の意思を参戦に転換させるため、上述のようなルーズベルト大統領と背後の国際金融資本がしかけた罠で故意に日本艦隊の情報を現地に知らせなかったとする説は、非常に根強い。
この点につき、キッシンジャーも「日本がイギリス、オランダだけを攻撃したら、アメリカの参戦はむずかしかっただろう」と言っている。
さて、江田島孔明ならば、上述のように、決して真珠湾攻撃のような愚策はとらず、インド洋作戦に専念し、インド洋の支配から、地中海へ抜ける陸海軍連合の打通作戦を実施する。当時、陸軍は、南方作戦一段落後長期持久の態勢に移り、兵力を浮かしてビルマからインド-西アジア打通を図って北アフリカでのドイツ・イタリアと連携することによってまず英国の脱落を目指す戦略構想を持っていた。即ち海軍の対米との東向き短期決戦に対して、陸軍は西向き長期持久作戦であった。この陸軍の戦略に海軍が合わせるべきなのだ。この辺の戦略上の調整なくして開戦してしまうというのが、そもそも失敗だ。このような戦略の不在は、指導者が不在で官僚国家となった昭和期の日本の最大の欠陥であり、限界だといえる。

5.独ソ戦(1942年後半)

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ここで問題になるのが、もし仮に、真珠湾が無くても、アメリカ太平洋艦隊が西太平洋に進出してきた場合だ。むしろ、この展開は、海軍軍令部の想定内であり、願ったりの展開だ。
例えば、開戦時の軍令部総長永野修身大将は東京裁判の被告となり、昭和二一年に巣鴨拘置所内で延べ七回にわたって尋問が行われた。真珠湾攻撃に関する尋問が一一月一四日に行われた。片岡氏は尋問の詳細を紹介している。次はその要約である。「連合艦隊の山本長官は真珠湾攻撃を選んだが、軍令部はこれをあまりに投機的とし、米艦隊を南太平洋諸島に邀撃する温存方法を選んだ。永野総長は軍令部案に賛成していたが、山本長官が非常に強硬だったので、一〇月の終りか一一月の始めに賛成した。総長は、軍令部の計画の方が理論的であると思ったので、これを希望した。しかし、もし山本長官の計画が通らなければ、彼は辞職するだろうから、辞職させぬためには、賛成するほうが最良の策だと考えて、真珠湾攻撃計画に賛成した。この決断に対して、総長は責任を負う」。永野修身の獄中日記には「ハワイ攻撃の責任をとるかの問に対して、もちろんとの返事。気持ちよし」と書いている。

 海軍の作戦の最高責任者は軍令部総長であるから、総長の命令なくして真珠湾攻撃の実施はない。永野総長は、山本長官の真珠湾攻撃よりも、軍令部の南太平洋諸島に米艦隊を邀撃する作戦に賛成であった。即ち、「アメリカと戦争になったら、それまでのプランどおり、アメリカ太平洋艦隊がフィリピン救援のため、ハワイからマーシャル群島を通ってやってくるのを迎え撃てばいい」というのが軍令部の案であった。軍令部案に賛成すると、山本長官が辞職するので、やむなく真珠湾攻撃に賛成したという趣旨である。
私の戦略では、上述のように、インド洋を支配した後、長期持久戦略をとり、ひたすら待ち続ける。そして、何らかのきっかけで、アメリカが参戦するようなことがあっても、こちらからは手を出さない。
真珠湾が無ければ、アメリカは大鑑巨砲主義のままで、戦艦や巡洋艦と少数の空母を大挙して、差し向けるだろう。それを、西太平洋で迎え撃つのだ。この場合は、日本のホームで戦う、いわば日本海海戦と同じようになるだろう。
時期としては、昭和17年か18年頃だ。決戦場所は、まずはミッドウェーとフィリピンの中間あたりで、潜水艦の雷撃により、空母を集中して破壊する。その上で、日本の機動部隊を繰り出し、空母を全て破壊する。戦艦と巡洋艦で構成される残存艦隊はそのまま小笠原諸島沖まで前進させ、最後は、大和、武蔵の46センチ砲で、アウトレンジ攻撃をし、全隻を撃沈する。

6.小笠原艦隊決戦、日英講和会議(1943年前半)

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7.小笠原艦隊決戦、詳細

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これは、絵空事ではなく、上述のように海軍軍令部が日露戦争後から練りに練った対米戦戦略なのだ。成功確立は90%以上であり、まさに、日本海海戦の再現だ。
万一、米艦隊がインド洋の制海権を狙って、マッラカ海峡を越えたら、潜水艦や駆逐艦を使って、補給線を絶てばよい。それだけで、艦隊は立ち往生し、自滅するだろう。上述のように、インド洋の基地を全て帝国海軍を押さえている状況で、米海軍がインド洋に入ることは、自殺行為なのだ。
問題は、この「小笠原諸島沖海戦」の勝利をその後の講和にどのように活かすかだ。これができなければ、アメリカはその工業力と製造力を活かして、強大な空部機動部隊と大量の航空機部隊を繰り出してくるだろう。そうする前に、講和しなくてはいけない。

8.日英講和会議後の世界支配

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日本は、当初からアメリカ本土の全面的支配を目指していたわけではなかった。何とかして講和に持ち込むことができれば、それでよかったのだ。これは、日露戦争の状況と全く同じだ。
すなわち、一回の海戦の勝利を講和に結びつける必要があったのだ。日露戦争においては、その役割をアメリカが担った。「小笠原諸島沖海戦」においては、その役割を英国が担うことになる。この時点で、日本はインド洋の支配から、英国を脱落させている。英国は大西洋でもドイツと死闘を繰り広げていたため、アメリカの艦隊が極東で全滅したという状況で、少なくとも講和への仲介はやるだろう。その際の日本の条件は、ナチスドイツと英国との講和の仲介だ。
ヒトラーは本来、英国とドイツはシーパワーとランドパワーであり、目指すものが違うため利害が衝突せず、同盟を組めると見ていた。ヒトラーにとっての真の敵は、隣接するランドパワーである、ソ連だったのだ。
彼は、イギリスと協力してソ連を叩こうとする戦略を持っていた。これは、「わが闘争」にも明記された彼の戦略だ。彼の戦略を簡単に言うと、「英国とは同盟し、ソ連を打倒し、東方にドイツ民族の生存圏を築く。ドイツは西方には興味が無い。」ということだ。ところが、イギリスはフランスとともにドイツに宣戦布告した。
実際、史実においても、1941年5月10日、独ソ戦の開始直前にヘスはイギリスに向けてBf110戦闘機を操り、驚異的な単独飛行を行う。既にバトル・オブ・ブリテンはドイツの失敗に終わり、防空網を突破したことも奇跡的だったが、飛行はヒトラーに非常な驚愕をもたらし、ヒトラーは「おお神よ!ヘスが英国へ飛んだ!」と一人叫んだと言われる。
目的はイギリスとの停戦交渉であった。ヘスは旧知のハミルトン公爵が住むスコットランドの居城に飛び、公爵を介して独力で独英単独講和をまとめようとしたのだった。これは、失敗に終わったが、そこを太平洋からインド洋に至る制海権を握った日本が仲介するのだ。講和条件として、ドイツによるフランスの占領を解いてもいい。そして、その講和をもって、日米の講和を英国が仲介する。
この案の骨子は、英国に本拠を置く国際金融資本と日本で再度インド洋とアジアを分割する「日英同盟」を結び、アメリカを排除するという密約を結ぶことができるかどうかだ。つまり、新春特別号その2で述べたような、ワシントン会議での日英同盟破棄とアメリカのアジア進出以前に時計の針をもどすことができるかどうかが、焦点になる。
歴史を見れば、確かに、日本は敗戦国となり、英国は戦勝国となった。しかし、戦後、英国は、植民地が尽く独立し、かつ、最重要の中東利権をアメリカに奪われたという意味で、実は最大の敗戦国だったという見方もできる。つまり、穿った見方をすれば、米英は同じシーパワーとして、市場を争う最大のライバルであり、英国は、二度の世界大戦で、アメリカを育てて、結果として、基軸通貨としてのポンドと世界市場中でも中東の支配権を奪われたのだ。
この、「英国から米国への覇権移行」こそは、第二次世界大戦の真の意味であり、世界で最も重要な戦略的地域である中東支配者が変わったことを意味する。

つまり、新春特別企画その1で述べたような、ポルトガルからオランダさらに英国へというシーパワーの覇権の移行が起きたのだ。

この動きを理解するために、30年代初頭に遡って考える必要がある。30年代初頭とはとはいうまでもなく、大恐慌のさなか、主な国々がブロック経済確立へ向け動いた時期である。欧州の対米輸出は29年の13億ドル強からわずか3年後の32年、3億9000万ドルに縮小。米国の対欧輸出も同期間、23億ドル強だったものが7億8000万ドルへ激減した。29〜34年の間、世界貿易額全体は66%も縮小している。
こうした事態を招いたのは、米国におけるスムート・ホーリー関税システム(Smoot-Hawley Tariff Act, 1930年)と、英連邦・植民地諸国を対象としてつくられた帝国特恵関税システム=オタワ協定システム(32年)に代表される、ブロック経済システムほかならなかった。
しかし現実の米英は、およそ一枚岩などではなかった。緩やかな利益共同体ですらなく、ワシントンとロンドンの間にくすぶっていたのは、一つのあからさまな敵対関係である。
32年、オタワ会議でつくられた体制によって、大英帝国は「情緒の帝国(an empire of sentiment)」から「通商政治同盟(a commercial and political union)」へ脱皮した といわれる。以来大西洋の両岸をはさんで、貿易戦争、通貨切り下げ戦争は熾烈(しれつ)に戦われていた。
切り下げられたポンドによって輸出競争力を増した英国製品は、ついに米国の裏庭というべき中南米諸国に市場を拡大した 。ここで留意すべきは、ワシントンから見た場合、中南米市場に侵入する外勢として、英国とドイツは同列に見えたということである。
一方、「1920年代から30年代を通じてつづいた経済面での競合は、米英両国関係を冷たいものにしていた。30年代も半ばとなると、大恐慌以来の雇用問題を解決する一助として、米国人の目は貿易の拡大に向けられるようになる。ところがそこで目の前に立ちふさがっていたのが、英国の帝国特恵関税システムであって、そのおかげで米国製品は差別されていた」 。
例えば米国製タバコ、米国製自動車は、高率関税のおかげで英国市場へ入っていけない。これらに憤懣を抱き、オタワ協定を「米国の通商に深手をおわせるもの」と見なし、大いに反発していた者こそはハル国務長官である。
34年、ハルの指導力によって生まれた互恵通商協定法は、関税に関する交渉権を議会から大統領に付託するものだった。以来米国はこれを武器とし、外国政府に関税引き下げを迫っていく。
このようないきさつだったので、欧州で戦争が起き、英国が孤立すると、米国はこれを千載一遇の好機ととらえたわけである。その場合、困窮した英国を支える武器貸与協定は、英国から特権を剥奪するため十二分に生かすべきテコであり、格好の武器であると見なされた。
米国から英国へ武器を貸与する協定を結ぶに際し、オタワ協定でできた特恵関税システムを、こと米国商品に限っては無効とせざるを得ない条件を含むものだった。また通貨の自由な切り下げを許さない内容を含んでおり、英国の経済運営の自主権すら剥奪されかねないと予想された。
しかも守らない限り、米国から英国への武器貸与は実現しない。まさしく最後通牒というべきもので、英国が突きつけられた「ハル・ノート」であると呼びたいゆえんである。
戦後の国際通貨、決済制度を定めたブレトン・ウッズ体制の創設においても、米英は対立する。
英国案は、世界の手形集中決済所のようなものをつくろうとするものだった。各国公的当局の持ち込む収支尻を相殺させあう場所である。その際の決済通貨として、バンコールなる新通貨を創設することが予定されていた。
英国は外貨準備の払底に悩み、戦後対外赤字をつづけていかねばならないことが容易に予見されていたけれども、ケインズ案による限り、「金、外債[という外貨準備]なしで、つまりバンコール預金の創設で、ある程度の輸入を続けることができる」。
バンコール口座を開くのに、元手はいらない。新設機関は、加盟国から出資金の拠出を求めないものとなる。それなら米国の抜きん出た経済力は反映されず、つまりは英国の退勢も映し出すものとならない。
それがケインズ提案のうまみであったが、ブレトン・ウッズ会議でつくられることになった国際通貨基金(IMF)は、およそ似ても似つかないものとなった。
米国案を基礎とするIMFは何よりも、拠出に基づく機関である。出資割当額は、戦前の貿易額を基礎として算定することを求めたケインズの「最後の抵抗」を入れず、各国の金保有高、国民所得額を基準とすることになった。
出資割当額は投票権の大小につながる。米国の覇権を反映するものとなったわけで、ケインズと英国は、完膚なきまで敗北したわけである。結果として、ポンドは基軸通貨の立場をドルに奪われていく。これが、「シーパワーの覇権交代」だ。
このような、英米対立を国際政治面で決定付けるものとしては、戦後、英国が中東の再支配を目論んで再起を期した、1956年のスエズ動乱とアメリカの対応が、其の事を雄弁に物語る。
この点についてチャーチルは、戦後吉田茂に「日英同盟を解消したのは失敗」と述べたそうだ。
このように、第二次大戦にアメリカを関与させたことが結果として、英国からシーパワーの盟主の座を奪うのであれば、日英が昭和18年時点で手を組み、「アジア、中東からアメリカを排除する」という戦略も英国にとっては、メリットがあるだろう。
上述のように、米艦隊が小笠原沖で壊滅した直後なら、この提案に、英国はかならず乗ってくる。条件として、日本がいったん支配したインドやスエズをくれてやってもいい。これは、インド洋の半分と大西洋を英国に渡すという、日英間の「トリデシャス条約」なのだ。
前号や前々号で見たように、シーパワー同士はこの様な形で、「談合による利益の分割」が可能だ。この案の骨子は、日本が、一度支配したインド洋の西半分を英国に戻すということができるかどうかだ。
これは、日本が自己の攻勢終末点を認識できているかどうかに関わってくる。インド洋を単独で長期間支配することは、太平洋国家の日本には、そもそも不可能なのだから、シンガポールの支配とマラッカの支配により、東半分をのみを押さえ、西半分は英国にまかせ、攻守同盟を結ぶほうが、合理的だということだ。
この案は、もちろん、フランスやドイツにもメリットがある。英米は当然、対ソ支援を止めるだろうから、独ソ戦はドイツの有利に進むだろう。日本が陸軍を満州に集中させ、ソ連の背後を牽制すれば、モスクワを落とせるかもしれない。
そうなった時点で、日本が独ソの講和を仲介する。ドイツは資源の豊富なソ連の南部と東欧を得て、ドイツ人の生存圏とし、フランスには本土の回復と、アフリカを与える。つまり、東欧とソ連はドイツ、西欧とアフリカはフランスの影響下に入るのだ。
中国は国民党の支配が達成され、日本と講和し、ソ連共産党が崩壊した後のシベリアを手に入れる。
史実では、アメリカは、ソ連を援助し、日本を徹底的に潰してしまったため、中国の共産化に直面し、朝鮮戦争やベトナム戦争を戦わなければならなくなった。これは、アメリカが国際金融資本に操られ、日米戦を経由し対独戦に参戦させられるという戦略的な誤りがあったためだ。「真の敵」を取り違えていたといえる。
アメリカもこの事に戦後気づいたようで、それが、マッカーシズムすなわち、赤狩りに繋がった。マッカーシーは著作「共産中国はアメリカがつくった-G・マーシャルの背信外交」の中で、共産主義と資本主義の対立、米ソ冷戦などというものは嘘っぱちだ!第二次世界大戦が終わった後の世界秩序を、自分たちの思うがままに不安定にして、戦乱の火種を残そうとした勢力がいる。世界を自由主義と共産主義に分割し、意図的に両陣営を対立、拮抗させることで利益を得る者たちがいる。それが「新世界秩序」の設計図を引いた者たちであり、彼らに抜擢され操られ上手に使われた政治家が、ジョージ・マーシャル国務長官その人である。と痛烈に批判している。
すなわち、冷戦とは第二次大戦がそうであったように、国際金融資本が企画、立案した、「八百長のやらせ」であったということだ。
しかし、上述のように、日英同盟主導で世界を管理すれば、アメリカは、国際金融資本の代理人である民主党政権が倒れ、アメリカの国益を追求する共和党政権となり、従来のモンロー主義の孤立主義に戻る。
日本は、小笠原諸島沖海戦勝利後は、当然、米国共和党に働きかけ、講和への仲介を依頼しつつ、フィリピン以東は米領のままで中国や満州へのアメリカ資本投下も認める旨を条件とする。
そうすれば、戦後の朝鮮戦争以降イラク戦争にいたる、ユーラシアでのアメリカの戦争は不要で、冷戦も無いことになり、世界は安定する。
そして、日英主導で世界を管理した後、相互の植民地は1970年代には形式上独立していき、ゆるやかな連邦を築く。
モデルは、英連邦だ。英連邦の1971年の定義「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である(コモンウェルス原則の宣言前文)」と再定義され、ゆるやかな独立主権国家の連合となった(連邦国家ではない)ことが参考になるだろう。シーパワーの支配とは通商の自由であり、自由貿易連合にその本質がある。
いずれにせよ、戦争開始の直前で従来の西太平洋迎撃戦略を泥縄的に大幅に変化させ、先制攻撃戦略をとり、真珠湾以降、ミッドウェイ、マリアナ、大和の沖縄特攻と、先制攻撃に出ては、負け続けた帝国海軍の愚昧さは、筆舌に尽くしがたい。
いわゆる海軍乙事件(古賀連合艦隊司令長官殉職事件)により作戦計画や暗号が米軍に漏れていたのに何の対応もとらなかった点や、補給や輸送を徹底的に軽視し、米潜水艦によってシーレーンを寸断され、支配地域を全て餓死地獄に追いやった点などみると、むしろ、最初から、本気で対米戦をやる気が無く、利用されただけだということなのだろうかと訝ってしまう。
技量世界一のパイロットや史上最強の戦艦大和や世界初の空母機動部隊といった戦術分野では世界水準ながら、「戦略で失敗すると、戦術ではリカバリーできない」といういい例だ。
この様に検討していくと、太平洋戦争に日本が突入し国家消滅寸前の大敗北を喫したのは、「ソ連コミンテルン-アメリカ民主党-英国国際金融資本をつなぐ、「ユダヤネットワーク」の国際的謀略に嵌められたためだった」という結論以外、あり得ないことになる。
簡単に言えば、例えば、アストンマーチンの独占的代理店がベンツに乗り換えようとして代理店契約解除した報復を、輸入元であるアストンマーチンから受けたということだ。
これが、前号で検討した、国際金融資本と日本との代理店契約である「日英同盟破棄」の論理的帰結なのだ。
そうであるならば、21世紀の日本のインド洋戦略において、国際金融資本との紐帯を維持するしかない。そうでなければ、どのような罠が待っているかわからない。そして、その際に参考になるのは、17世紀の指導者の対応だろう。
注意すべきは、16世紀から引き続く国際金融資本と日本とのバトルは、金融ビッグバンや三角買収の解禁を見てもわかるとおり、現在進行形だ。そう考えれば、経済の根幹である金融や産業の神経である通信において、日本政府がメガバンクの統合やNTT持ち株会社方式により、「外資支配の排除」を行っている理由も分かるであろう。これは、国家安全保障をかけた、ギリギリの攻防の結果であり、高山右近のようなキリシタン大名を出さないための手段として、自由化しつつも、重要産業の中央集権と国家統制を図っているのだ。
ここで、第二次世界大戦の敗北により得られた、もっとも大きな教訓である、「大戦参加各国の攻勢終末点」について述べてみたい。上述の家康の例を引くまでもなく、真の戦略家は、敗戦から最も多くのことを学ぶのだ。
まず、攻勢終末点とは、各国の地政学的条件により、支配可能な最大エリアと定義できる。簡単に言えば、他のランドパワーやシーパワーを排除できる最大領域だ。このエリアを越えて拡大した場合、崩壊が待っている、いわば、ポイント・オブ・ノーリターンだ。このエリアが第二次大戦を通して、参加各国毎に明確になったのだ。
まず、日本は、シーパワーであり、シーパワーである以上、海洋の支配とその手段としての島や港の支配が必要だ。この観点から、小笠原から沖縄、台湾、シンガポールそしてインド洋のセイロンにいたるエリアが攻勢終末点であろう。帝国海軍の力で、このエリアの支配は十分可能だった。中でも、シンガポールの支配は太平洋とインド洋の「結節点」でもあり、シーパワー支配の根幹をなす。
次に英国は、日本との同盟を継続しさえすれば、ジブラルタルからスエズ、南アの支配に特化し、地中海と中東、インド支配を継続することは可能だ。すなわち、インド洋の西半分の支配だ。
ドイツは、いうまでもなく、北アフリカと東欧そして、ロシアの南部すなわちスターリングラードとエルアラメインが攻勢終末点となる。これは、史実としてのドイツ軍の最大進出領域と完全に重なる。つまり、ランドパワーのドイツ軍は、逆立ちしてもインド洋の支配権を得ることはできず、結果として中東の支配もできない。これは、3B政策が英国の3C政策に対抗できず、結果として中東を支配できなかったことから考えても、妥当な結論であろう。この点は、現在のEUも同じだ。
アメリカにしても、最も効率的なのは、アジアにおいてフィリピン支配に特化することだ。そうすれば、太平洋の覇権は日米で相互承認できる。実際、1905年の桂・タフト協定により、日本とアメリカは、朝鮮とフィリピンの権益を相互承認した前例もある。アメリカが中国に過大な期待を抱かず、中国支配を目論む国際金融資本に操ら、日本と戦争しなければ、この桂・タフトの線で、日米の利権は調整できたことは間違いない。
ソ連は、ドイツが崩壊したことにより東欧を支配できたが、上述のようにドイツが日本とスエズで強力し、ユーラシアの東西とインド洋、地中海からソ連に圧力をかければ、ソ連崩壊は間違いない。
フランスは、ドイツの東方進出の見返りに西欧とアフリカを手に入れる。
結局、地中海とインド洋を日英が支配するために、ジブラルタル、スエズ、セイロン、シンガポールと南アを結ぶ飛び地を日英で協力して押さえればいい。これによって、インドや中東を含む、ユーラシアの南側を封鎖でき、海洋国家連合は栄華を極めるだろう。

 ここまで、新春特別企画を通じてインド洋と世界の歴史を見てきて分かった事は、「インド洋を制するものは中東を制し、地中海を制するものは欧州を制し、太平洋を支配する勢力は日本を支配する」のだということだ。すなわち、「制海権は制陸権に勝る」ということだ。

 この点を理解すれば、陸地の支配とは、海洋の支配を失えば、本質的に脆いものであることが分かるだろ。すなわち、「陸と海の勢力限界」を明確にする必要がある。アメリカのイラク戦争は、この点の考察が全く無かったため、失敗したのだ。
このような歴史的考察に基づいた「21世紀の日本のインド洋戦略」は、「世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略」において、順次、掲載していく。
以上

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