今回は、平成十九年新春を記念して、「日本のインド洋戦略」を、その歴史的経緯、蹉跌を見ていくことで、検討してみたい。
日本人は、海というと、日本海や東シナ海、太平洋を思い浮かべる。たしかに、近世以前の日本人にとって、海とはこれらを指していた。しかし、近世以降、具体的には、大航海時代を経て、地球が「グローバルな一つの経済圏」として認識されてくるようになると、より重要な意味を持つのは、インド洋になった。
日本とインド洋が直接結ばれるようになったのは、よく知られる、1543年の中国船に乗ったポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えてからだ。1549年のイエズス会士フランシスコ・ザビエルの来日とあいまって、この時期のポルトガル、すなわち「世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略号外」で述べた、国際金融資本との接触は、日本の運命を大きく変えた。つまり、国際金融資本により、近代のグローバル経済体制に、日本が組み込まれたのだ。
その過程で、日本の指導者が国際金融資本に対して、どのような対抗策をとってきたかとは、実は、日本にとって、最大の国家戦略上の課題といってもいい。対応を一歩誤ると、日本はフィリピンやマカオや香港のようになっていた可能性は十分すぎるぐらいあったのだ。これは、インド洋をはさんで日本と国際金融資本との間の凄絶なバトルなのだ。
ポルトガルに始まる、近代のシーパワーの勃興はインド洋を支配することで達成された。そこでのエトスは、あく無き「利潤の追求」すなわち、経済的動機だ。それは手段として、戦争、征服、奴隷化、植民地化など暴力的収奪を特徴としていた。近代とは、シーパワーの勃興期であるが、シーパワーの負の面が極度に現れた時代とも呼べる。
ヨーロッパに出現したシーパワーの活動領域は、西ヨーロッパを中心とし、アジア、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸を周辺地域として形成された。
世界システム論(World-System(s)Theory)の唱道者であるアメリカの社会学者・歴史学者ウォーラステインは近代世界システムのみが世界帝国となる事なく、そして衰退する事無く存在し続ける理由として世界的な資本主義の発展をあげており、近代世界システムが多数の(言い換えれば世界システムに比較し小規模の)政治システムにより成り立っていた為、経済的余剰を世界帝国特有の巨大官僚機構や広域防衛体制に蕩尽する事無くシステム全体の成長に寄与させる事ができ、また経済的要因の作用範囲が個々の政体の支配範囲を凌駕していた為、世界経済は政治的な掣肘を超えて発展する事が可能となった、としている。
ウォーラステインは、そのような、西欧の変革の根本的動機は黒死病による、人口減だという。しかし、私に言わせれば、そのような問題は実は、本質的なものではなく、より重要な点として、オスマントルコの関税政策による東方貿易の果実を欧州が得られなくなったこと、そのため、アジアと欧州の直接交易をポルトガルが目指したことによる。より根本的には、当時、マムルーク朝がヨーロッパとアジアをつなぐ中継貿易で巨万の富を得ていたが、15世紀末にポルトガル人が喜望峰航路を開拓し、エジプトを経由しなくてもヨーロッパからアジアに行けるようになると急激に衰えた。マムルーク朝はポルトガルに戦いを挑むが1509年の「ディーウ島沖の海戦」に惨敗、1517年には北から攻めて来た新たな敵オスマン・トルコ帝国によって滅ぼされてしまったことにより、マムルーク朝の築いたインド洋海上交易路をポルトガルがそのまま利用した事であった。
この、インド洋を支配したシーパワーポルトガルとの接触により、日本史は全く新しい局面に入る。短期的に見れば、ポルトガルよりもたらされた鉄砲を大量に国産し、装備し、集中運用した織田信長の登場により、戦国時代は終息するかのように見えた。しかし、このことは、新たな問題を生んだ。すなわち、シーパワー勢力による日本の植民地化の危険である。
シーパワーポルトガルの戦略とは、イエズス会宣教師を表に立て、当該国の布教とキリスト教化を目指し、最後には、軍事力による支配を目指すものだ。これは、すでにポルトガルがインド洋のゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。
豊臣秀吉は九州征伐後の九州各地のキリシタン大名の様子(特に長崎は領主の大村純忠より、イエズス会に寄進され、マカオのような状況であった)を見て、宣教師の背後のシーパワーの野望が日本侵略にあると確信し、キリスト教を禁ずること、宣教師を国外退去に命ずることを伝えた。
表向きの理由は、宣教師が日本古来の社寺仏閣を破壊したり、日本人の奴隷貿易を仲介していることを挙げているが、真の理由は、高山右近に代表されるキリシタン大名の増大が、ポルトガルやスペインの軍事干渉を生み国家安全保障上の重大危機に繋がる懸念があったことだろう。
これが「天正(てんしょう)の禁令」として知られる第1回のキリシタン禁止令であった。以後徳川時代にかけて、次々に発せられていくことになる。続く措置として。秀吉は、長崎の公館、教会堂を接収した。
近年解読されたイエズス会文書館所蔵の資料から、日本で布教を続ける宣教師達が本国と連絡を取り合いながら、キリシタン大名を競合して「日本占領計画」を持っていたことが判明した。ヨーロッパ最強と謳われたスペインの海軍力がその背景だった。となると、追放令は、その計画を察知した秀吉の自衛対抗的措置だったことになる。弾圧を強める秀吉に対して、宣教師側は四国・九州攻撃と日本国内への軍事基地の建設まで企てていた。頂点に達した両者の緊張は、秀吉の死よって終止符を打つ。しかし、キリスト教禁制はその後も徳川幕府2世紀半の鎖国政策に引き継がれていった。このように、もし日本がアステカやフィリピンのように脆弱で、キリスト教宣教師の野望が実現していたら、どうなっていたであろう。
結果としてポルトガル・スペインによる、日本への軍事侵攻が無かったのは、一つには日本の位置が極東の島国であり、補給線の確保が難しかったこと、さらには、当時の日本は戦国時代の終盤であり、国内には、武装し、実戦経験豊富な軍人が浪人を含め多数存在し、何よりも鉄砲の保有量が、事実上世界一という、「超軍事大国」であったからだろう。このような時代背景と地理的要因がなければ、間違いなく日本はフィリピンやマカオと同じような運命をたどっていただろう。
江戸時代に入ると、布教を目的とするポルトガルやスペインといったカソリック国との交易は一切拒絶し、布教を伴わない、オランダと交易関係を、窓口を長崎の出島に限定して維持することになる。いわゆる「鎖国」だ。
この時期の江戸幕府の戦略の根幹は「外国勢力(特にオランダ)との通商を徳川家で独占し、他の大名が外国勢力と結びつかないようにすることで日本を支配する」と定義したい。
簡単に言うと、徳川家がオランダの独占的代理人となり、日本市場を双方で取り仕切るということだ。オランダとしてはライバルのスペインやポルトガルを日本から排除でき、徳川としては、外様大名を封じ込めるため、外国勢力を排除できるため、利害が一致したわけだ。
そして、この「徳川-オランダ連合」(これを第一次日本、国際金融資本連合と呼ぶ)こそが、260年間の平和と安定をもたらした根本要因なのだ。しかし、この戦略には根本的欠陥があった。それは、オランダとの貿易港が江戸を遠くはなれた長崎の出島に置かれたという点だ。
推測だが、家康はあくまで、江戸に近い三浦半島に国際貿易港を築きたかったのではなかったか。それが、ウイリアムアダムス(三浦按針)に三浦半島に領地を与えた理由だろう。
しかし、16世紀当時の船舶技術では、太平洋沿いに紀伊半島を越えることには非常に危険が伴った。そのため、貿易港が九州に置かれることとなったのだ。これが、260年後、薩摩長州といった、西国雄藩が英国と結びつくようになった根本要因である。
オランダとの交易の重要な点として、オランダ船が長崎に入港すると、まず風説書が提出されたことが挙げられる。これにはヨーロッパからアジアの政治情勢などが記載されており、幕府の貴重な外交上の情報源として重用視されていた。
これは1641(寛永18)年以降その提出が義務づけられた。むしろ、この情報を得る見返りに交易を認めたというのが真相であろう。当時の日本にとってオランダから輸入するもので必要不可欠なものは、この世界情勢に関する情報以外にはないのである。
風説書の内容は極秘扱いであり、老中以外は内容を知ることが出来ないため重大な情報を得たとしても適切な対応が出来なかった。が、極秘扱いとはいえ、一部の諸藩はこれに大きな関心を持ち、長崎駐在の聞役(藩と長崎奉行との連絡に当たる要職)の暗躍で、通詞の訳文の控えが外部に洩れていたようである。
その情報はかなり詳しいものであり。例えば、1673年、英国船リターン号が来航して貿易の再開を求めたとき、幕府は英国の王室とカトリック国のポルトガル王室とが姻戚関係にあることを理由にその要求を拒否している。その根拠となった情報は、1662年の阿蘭陀風説書であり、チャールズ2世が1662年ポルトガル王女カサリンと結婚した事による両国王室の姻戚関係を知っていたのである。
これをどう見るか。言い方を変えると、オランダの情報に依存するということは、とりもなおさず、オランダによる恣意的な加工された情報にも頼ってしまうということである。カソリックが領土的野心があるなどといったことも当然吹き込まれたであろう。
そして、現在の東京都中央区は運河と江戸時代初期の埋めたて地で構成されるが、その造成にオランダの知識、技術があったのではなかろうか。 江戸期以降、中央区は日本のアムステルダムであり、本家アムステルダム、ニューアムステルダム(ニューヨーク)そして中央区は全てオランダシーパワーの紡いだ線で繋がっていたのである。
これらの都市に金融センタが存在することが何よりの証拠である。更に、近世の貨幣制度を確立したのは家康である。金・銀・銅の三貨制度といわれている仕組みである。この三貨は家康以前にも存在していた。
しかし、使用法は異なっていた。まず金貨は主として贈答や褒美用のものとして使われていた。軍功を立てた家臣にご褒美としてつかわすといったものである。これに対して家康が慶長6年(1601年)に発行した金貨、すなわち慶長小判は、実際に流通の用に供するために鋳造され、合わせて四分の一の価値をもつ一分判が発行された。家康はここに従来の使用法を改め、金貨である小判を中心とした三貨制度を実施した。
金貨を貨幣制度の中心に据えることもヤン・ヨーステンの発案ではなかろうか。更に、生糸輸入の超過であり、金銀の海外流出が止まらず、必要量を補うため実施したのが貨幣改鋳である。
すなわち、金・銀の品位を下げて同じ量の金・銀量からより多くの単位の金・銀貨を作ろうというものである。これは綱吉の時代の勘定奉行・荻原重秀によって始められ、何度か見直しはあったが、江戸時代を通じて財政危機を乗り越える苦肉の策として何度も実施された。
江戸期を通じ、オランダ貿易には問題があった。オランダに対価として支払う金銀は莫大な量に上ったのだ。これは、日本と世界における交換レートの差を巧みに利用したオランダの貿易戦略によるものだ。
江戸中期の新井白石が調査した結果、僅か60年間で金239万7600両、銀37万4200貫が国外に流出していた。
そして100年間では何と日本で産出した金の4分の1、銀は4分の3が流出していたのだった。また銅に関しても、45年間で11億1449万8700斤に及んでいた。当時は金や銀を貨幣の代わりにしていたため、このような事態はいずれ避けられなくなる宿命にあったのだ。
これを野放しにしておけばあと100年も経たないうちに日本の金銀が底を突いてしまうと懸念した白石は、貿易制限に踏み切ることを決断。1715年(正徳5年)、海舶互市新例《長崎新令》を定めた。
ところが、当時の清では金より銀のほうが価値が高いとされ、中国の商人達は金を日本へ運んでいたのである。金1匁に対し、銀10~20匁というレートであり、結果として流出した金のうち、6割強は再び日本へ流入していたのだった。しかも極めて消極的な改革だったため、輸入超過はなかなか解消できなかった。
このように、江戸期を通じて維持されたオランダとの交易関係は、本質的には「国際情勢に関する情報を買って、金銀を売る」という構造をとった。そして、オランダ一国のみからもたらされた情報では、江戸幕府は世界の趨勢を正しく読み解くことができなかった。これが、江戸幕府崩壊の根本要因だ。
つまり、オランダはナポレオンに本国を制圧された時点で出島にしか国家が翻っていなかった時期があるが、そのような事実は当然、幕府には伝えていなかったであろう。なにより、オランダが同じシーパワーとして、英国に、覇権を奪われたことが決定的であった。そして、英国は薩長と組むことになる。明治維新だ。
英国が、薩摩長州と接触した契機は生麦事件(1862年、文久元年8月21日、旧東海道の一漁村生麦村で起きた薩摩藩主島津久光の行列を無礼にも騎馬のまま横切った英国商人リチャードソンを薩摩藩士が抜刀のもと切り捨てた)につづく薩英戦争、さらに、元冶元年(1864年)、長州藩は8月4日、英仏欄米の四カ国艦隊に砲撃等の交戦を通じ、薩摩長州藩士の士気の高さに驚き、他の植民地にない知性と礼節を弁えた日本の武士の存在を知り、パートナーとするに足る存在であることを認めたのである。そして、何より、一度戦って、優秀さを認めた相手は、積極的に雇用するというのも、グルカ兵に見られるごとく、シーパワーの伝統だ。
この後、薩長は英国の支援を受けた。特に最新式の銃火器を大量に安く調達できた。最初はミニエー銃。薩摩藩は、薩英戦争後に攻められた後の軍制改革で、これを一万挺購入した。火縄銃しかもっていなかった幕府軍に対して、火力で圧倒的優位に立ったのである。薩長に武器を売ったのは、長崎グラバー邸で有名なグラバーだ。1859年、長崎開港直後、21歳で来日し、グラバー商会を設立。お茶や鉱山設備も扱ったが、武器や船が主だった。
1866年英国政府は、エンフィールド銃(英国風改良ミニエー)前装銃を、後装銃に改造し、エンフィールド・スナイドル銃と呼んだ。戊辰戦争でも、西軍は江戸城占拠後、英国製ミニエー銃を、スナイドル銃に改造した。この銃は、西南の役の頃も、明治政府軍の標準銃として使われている。
幕府はナポレオン三世に率いられたフランスの支援を受け、内戦状態に陥る。まさしく、シーパワー連合VSランドパワー連合の構図である。アメリカは国内問題(南北戦争)を抱え、日本への関与どころではなくなってしまう。
幕府に対するフランスの軍事顧問として来日し、蝦夷共和国に参加したブリュネの手紙。明治維新の本質がよく表されている。
「 1868年10月4日 皇帝陛下
陛下のご命令で日本に派遣されて以来、陛下の御名を汚さぬよう、顧問団一同、精一杯頑張ってまいりましたが、この度の一大変革により、我々はフランスへ帰還せねばならない事態に陥りました。しかしながら、本官だけは残ります。本官は一人でフランス贔屓である奥羽越列藩同盟軍に加わることにより、我々軍事顧問団が成し得た成果を試してみたいのであります。
数日前、私のもとへアイヅを初めとする北方の大名達よりの使者が参り、同盟軍の指揮をとってほしいとの請願がなされ、本官はこれを受諾いたしました。このなかには教え子である伝習隊の将兵も加わっており、同盟軍は5万人にも及んでおります。同盟軍には近代的陸軍を統率出来るだけの人材が不足しており、彼らはその役目の一端を一介のフランス軍人である本官に託してきたのであります。
ヨーロッパ人である本官にこれほどの信頼を寄せてきたことは、この日本においてかつてないことであります。そして、教え子達の行く末を思うとどうしても断ることが出来ませんでした。
陛下におかれましては既にご存知かと思いますが、英国は同盟軍に敵対しているミカド軍を影ながら援助しております。このままでは、日本は清国同様、かの国の強い影響下におかれたものになるでしょう。
大業は大衆によって成し遂げられるという偉大なナポレオン陛下の遺訓のもと、我々はこの国で人民を護る護民官育成を目的として調練に励んできましたが、かの国の影響下ではどのような軍隊が、そして国家が出来上がるのでしょうか。
返して、本官は同盟軍に参加することこそ、亡きナポレオン陛下の遺訓に沿い、そして、皇帝陛下に忠誠を捧げる好機と思い、決意したものであります。本官はこの国においてフランス思想の普及に全力を尽くして参りました。そして、これからも一民間人としてフランスの大義を果たす為に努力するつもりであり、もしこの努力が皇帝閣下のお目にとまりますればこれに優る喜びはございません。
陛下の忠実なる下僕、砲兵大尉 ジュール・ブリュネ 敬白」
結果は英国金融資本に支援を受けた薩長の勝利であった。ここで、私は幕府が自壊したのは、フランスが普仏戦争(1870年~1871年プロイセンとフランス間で行なわれた戦争スペイン国王選出問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦プロイセン側が圧倒的に優勢でナポレオン3世はセダンで包囲され、1870年9月2日同地で降伏 )を抱え、日本への関与ができる余裕がなくなったことが大きいと考える。
清に対する軍事力によるアプローチと日本に対する薩長を背後から操る間接支配のアプローチ(上述のように、薩摩長州が倒幕に成功したのは、英国の支援で最新式の銃火器が安く調達できたことによる。戦国期の織田信長がポルトガルから硝石を輸入できたことにより、鉄砲の集中運用から、国内の統一ができたこと、徳川家康がオランダ船から長射程艦載砲や鉄砲を通さない西洋式甲冑を譲受け、関が原に勝利したことと、さらに、江戸期、徳川家による支配を安定させるため、諸大名に外国貿易を禁じたことと、本質は同じである。
逆に言えば、薩長が英国という外国勢力と提携したために、幕府は滅びたことは、この「鎖国」という政策が、徳川家の維持には役立ったことを反対証明として、雄弁に物語る。
対照的に、清においては中央集権国家であり薩長のようなコントロールできる反対勢力が存在せず、かつシンガポールという後背補給港を有していたことから軍事攻撃が可能であったこと、又、1860年代に英国が植民地政策から自由貿易政策へとシフト(穀物法が1846年に撤廃されると、英国の内側では産業資本主義が定着し、国際社会に対しては帝国主義が退き、グラッドストン内閣下自由主義的な「小英国主義」が基調となった。)したことがその理由であろう。
植民地直接支配は、コスト高でペイしないことをインドで学んだこともあろう。この日英の蜜月言い方を変えれば師匠と門弟の関係は日露戦争まで続く。日英同盟によりロシアの南下を防ぐことに成功したわけであるが、1905年の改定でインドを守備範囲に入れていたことを知る人は少ない。これはインドにおける英国の利権を守るために日本海軍は出動するということである。このように、日本は英国の忠実なるパートナーまたはエージェントであったため、両国に利害の対立はなかったのである。すなわち、インド洋を舞台に、日英は攻守同盟を結んでいた。これが、日露戦争後の日本の国家戦略の根幹だった。
前号に引き続き、日本にとってのインド洋とは何なのかを、その歴史を通して、検討してみたい。まず、私が年末の号外である、「海洋国家連合のインド洋戦略」や新春特別号その1で述べたことを要約すると、「シーパワーにとっての対外政策は多国籍企業の企業活動そのもの」ということができる。
これは、我々が通常思い浮かべる「主権、領土、国民」を要素とする従来型の国家像が、実はランドパワーである欧州大陸で30年戦争後に生まれた概念ということを考えれば、大航海時代以降のインド洋の覇者であるポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスは、国家というより、現代的なグローバルな多国籍企業の魁として捉えるべきだということだ。
つまり、シーパワーのエトスが、実は、「主権、領土、国民」の護持にあるのではなく、「交易によるあくなき利潤追求」すなわち「資本主義」にあることを理解すれば、時代によってその扱う交易品が、奴隷であったり、コショウであったり、金銀や原油であったりするかの違いが存在するだけで、その「本質は全く変わらない」ということがいえる。つまり、煎じ詰めて言えばシーパワーの栄枯盛衰とは、多国籍グローバル企業経営そのものなのだ。
シーパワーの本質を多国籍グローバル企業の企業活動と置き換えると、いろいろなことが分かる。彼らの東方貿易とは、つまるところ、マーケティング戦略である、「交易ルートや生産拠点や市場をいかに独占するか」という点で、全く同一なのだ。
そして、「独占」が不可能な場合、「談合」による既得権の相互承認を行ったり、「海戦」すなわち「敵対企業の買収」をしたりする。
シーパワーがその既得権を談合により相互承認した例として、有名なのが、先発のポルトガルと後発のスペインの1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約だ。

背景としてポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して、1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結して各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。

その後、新興の英国やオランダといったプロテスタントが盛んに海外進出し次第に先行していた両国を凌駕していった。
談合が不可能で、企業買収(海戦)を行ったのが、1571年にオスマン・トルコ艦隊をスペイン艦隊が撃破したレパント海戦や、1588年には英国艦隊がスペイン艦隊を撃破したアルマダの海戦だ。
このように、談合に訴えるか、企業買収に訴えるかは、その時々の競合状況や企業文化(宗教)等によって規定される。
このような視点でインド洋の覇者の交代を鳥瞰すると、おもしろい法則があることに気づく。それは、「インド洋の覇者は必ず日本を手にいれ、それから中国へ向かう」ということだ。
すなわち、1543年のポルトガル商人の種子島漂着から1593年スペイン領フィリピン総督の使節としてペドロ・バプチスタが到着し、1600年リーフデ号でオランダ人ヤン・ヨーステン、イギリス人ウィリアム・アダムスが漂着してから後、諸国は、明らかに「日本貿易を独占」しようとして、争った。

そして、常に、「インド洋の制海権を支配した最強のシーパワー」が日本を独占することになる。これが、前号で見た、日本とシーパワー列強との間の歴史だ。
つまり、「日本を押さえた勢力がインド洋を支配する」ということもできる。この関係は現代の日米関係についてもあてはまり、「歴史を貫く法則」だといえる。
ここで重要な点は、日本は果たして、上記のような意味でのシーパワーすなわち、多国籍企業であったのかという点だ。私は、そうではなかったと考えている。
日本は端的に言って、シーパワーの極東総代理店であったのだ。そして、日本の支配者は、織田信長以降安倍晋三に至るまで、第一次世界大戦から第二次世界大戦の時期を除いて、常に、世界最強のシーパワーと「独占的代理店契約」及び「OEM契約」を結んでいたのだ。
この点を検討してみよう。例えば、企業のマーケティング戦略にて、販売代理店契約を結ぶことはよくあるが、その際、独占と非独占を明確にする必要がある。
また、独占については、一定範囲の商品や一定範囲のテリトリーに関してのみ独占とする場合のように部分的な独占権を与える場合があり、また、一定購入量の定めを遵守する限りにおいて独占とし、その購入量を下回った場合には独占性を喪失させる等の定めも可能である。
供給者にとって、独占的な販売権を販売に付与するということは、当該商品等の販売店についてその販売店に全面的に依存することとなり、その範囲で自己の事業活動が制約されることにもなるため、独占権の付与の条件については慎重に検討するのが賢明である。
このように考えると、シーパワーは、日本の指導者を常に独占代理店のように扱い、成績が落ちたら、遠慮会釈無く切り捨ててきたことが分かる。
マーケティング戦略に、OEM(相手先ブランド供給)というものがある。これは、営業力をもたない中小の工場が、大手の委託を受けて、製品を開発納入し、委託先のブランドで販売するものだ。営業力がない中小工場にとっては、大手の販売網を利用でき、一定の売り上げが保障されることになる。
この戦略の問題点は、委託を受けた側には、エンドユーザとの接点が無いため、価格設定権をもたず、結果として市場をつかむことはできない。そして、常に販売網をもつ大手にマージンを取られ、かつ、大手に切られたらそこでおしまいということだ。そのため、OEM委託先企業は、独自ブランドの開発を実施し、直接エンドユーザへ販売し、市場を握ろうというインセンティブが存在する。簡単にいうと、大手の下請けから脱皮し、独立企業になろうとするということだ。
日本とシーパワーとの間に、このような関係があり、少なくとも、過去、二回、日本は「独自ブランド」により、インド洋に乗り出そうとした。
一回目は、戦国時代の末期だ。この時期、徳川家康による朱印船と呼ばれる「異国渡海朱印状」という渡航証明書を持ち、安南(ベトナム)、カンボジア、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)など東南アジア諸国との貿易を許可された船があった。
渡航する船に朱印状(許可証)を与え、外国に対しても朱印状をもった船(朱印船)にのみ貿易を許す。幕府公認貿易である。派船数は、1604年~1635年(寛永12)の約30年間に350隻以上、年平均約10余隻が派遣された。のべ渡航者は、約10万人で、日本における「大航海時代」である。
1540年代より日本に来航したポルトガル船を契機に南蛮貿易が開始され、後にはスペイン船もこれに参入した。そして、この時期、日本人町と呼ばれる、東南アジアに渡航して住みついた日本人によってつくられた町があった。
朱印船が頻繁に渡航した安平(台湾)、サンミゲル、ディラオ(ともにルソン)、アユタヤ(シャム)、プノンペン(カンボジア)などには日本人町が形成され、商品の買い付けや売買の拠点となった。プノンペン(カンボジア)・アユタヤ(シャム)が有名である。200~300名から数千人の人口があり、自治制をしいた。
そして、この時期の日本の朱印船貿易は、当然のごとく、東南アジアの利権を巡って、シーパワーと衝突していく。有名な事件として、ポルトガル領のマカオに寄港した有馬晴信の朱印船の水夫が、酒場でポルトガル船であるマードレ・デ・デウス号の船員と些細なことから口論、そして乱闘となって、晴信側の水夫60名ほどが殺害され、積荷まで略奪されるという事件が起こった。
この事件に晴信は激怒し、直ちに徳川家康に長崎に寄港してくるマードレ・デ・デウス号への報復の許可を願い出た。家康はこれを放置しておけば、日本の国家権威が甘く見られると判断して即座に晴信に報復するように命じた。そして晴信は同年12月12日、マードレ・デ・デウス号を包囲攻撃し、3日後には沈没させるという事件が起きた。
この後、ポルトガル、スペインと死闘を繰り広げていたオランダのヤン・ヨーステンの運動やカソリックの反乱である天草の乱等もあり、幕府は領土的野心を持っていたカソリックと断交し、布教を目的としない、オランダと独占的代理店契約とOEM契約を結んだ。これが、寄港地を長崎の出島に限った上での制限貿易だ。
すなわち、独自ブランドで展開していた、日本人町を見捨て、日本人の渡航と帰国禁止すなわち、鎖国を行ったのだ。
これは、一面では、後発のオランダが日本を独占し、ポルトガル、スペインとの関係を切らせ、なおかつ東南アジア交易から日本を排除したという意味で、勝利といっていい。
背景として、1588年のアルマダ海戦で、スペイン艦隊が英国に破れ、制海権を失っていたことを幕府は当然、知っていたのだろう。
すなわち、この時期、日本には、大きく分けて、三つの選択がありえた。
一つは、独自ブランド展開、もうひとつは、カソリックとのOEM、最後にプロテスタントとのOEMだ。そして、幕府は、世界の制海権をプロテスタントが握ったことを確認し、第三の選択肢を選んだということだ。独自ブランドを展開していたら17世紀中期に、インド洋で、日英海戦があっただろう。実際、二十世紀にそれは、実現したのだが。(ビルマ沖海戦)その場合、当時の世界最強の英国艦隊に日本艦隊が勝てる保障は全くなく、鎖国は、そのことを見極めた上での、見事なパワーバランス感覚だ。
このように、第一次の朱印船と日本人町による日本の独自ブランドによるインド洋進出は、鎖国とオランダへのOEMという形で終焉を向かえ、そのことが、江戸時代の泰平を生んだ。
二回目のインド洋への独自ブランドによる進出は、いうまでもなく、太平洋戦争だ。まず、太平洋戦争の契機について、様々な説明がなされている。昭和天皇陛下は、それを、米国による「対日石油禁輸」と「移民排斥」に求めておられた。確かに、それらも、直接的な理由のひとつではある。しかし、より根本的な理由として、日露戦争後の日本が、OEMであることを忘れ、独自ブランドに拘り、アジア進出を企てたことと、後発のアメリカがアジア貿易に乗り出す意図を鮮明にしたことにあると考えられる。
英国国際金融資本の支援を受けて明治維新を起こした薩長の下級武士は、元老となり、実質的に日本を支配し、日露戦争を戦った。彼らは、当時の日本政府が、英国国際金融資本の「極東独占的総代理店」であり、「OEM供給契約」を結んでおり、日露戦争もその一環で戦われ、勝利したという意識を持っていた。
しかし、大正期以降、次世代の官僚支配になると、そのような意識は失われ、第一次大戦後は「日本は一等国」になったと過信し、戦略上の過ちをいくつかおかした。それが、ひとつは、米国鉄道王ハリマンによる満鉄共同経営の拒否である。1905年8月、日露戦争の講和会議がセオドア・ルーズベルト米大統領の仲介で開催された。ポーツマス会議である。翌9月締結の講和条約により、日本は中国東北部にロシアが保有していた利権を獲得した。この地での鉄道施設とその経営のために設立された国策会社が南満州鉄道株式会社(
満鉄)だ。
これに関心を寄せた米国の鉄道王エドワード・ハリマンは、
日米による満鉄の共同経営を呼びかけた。日本政府はこの呼びかけにいったんは同意し「桂・ハリマン覚書」を交わす。が、小村寿太郎外相の猛反対により、最終的に御破産になったいきさつがある。
日本の変節は米国の目には、中国からの米国排除の意志の表れと映った。事実、その後米国では日本人移民排斥運動が活発化し、日米関係は次第に対立構造をあらわにしていく。
もうひとつは、前号で述べた1905年の日英同盟改定により、インドを守備範囲に含めたことと全く矛盾する、国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を加えるよう提案した事だ。白人主導の国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初であったが、英国およびオーストラリアは猛反対した。また、議長役であるアメリカのウィルソン大統領も、採決により11対5と賛成多数になったこの案を例外的に全会一致を求めることにより否決した。フランスは中立だったが、フランスでは人種の違いとは宗教の違いと言う理解が成されていたため、肌の色の違いによる差別という理解が無かった。この会議においてウィルソンが盛んに強調した「民族自決」という考え方は、そもそも欧州域内での戦争の抑止を目的としたものであった。
植民地支配を根幹とする英国の虎の尾を踏むこのような提案を、明治期の指導者なら、決してしなかったろう。英国にしてみれば、幕末以降、育ててきた代理店に「契約解除」を通告されたと思ったに違いない。まさに、「飼い犬に手を噛まれた」わけだ。
このように、当時の最強シーパワー英国と新興シーパワー米国を同時に敵に回すという、戦略上の大失敗を犯し、決定的なのは、1921年ワシントン会議で、米国主導により、日英同盟が破棄され、同盟国を失ったことだ。背景として、アジア(主に中国)貿易参入を目指す後発の米国は、日英同盟が存在する限り、アジア市場には食い込めないと考えたのだろう。これは、上述のように、オランダが江戸幕府を唆しポルトガル、スペインと断行させ、独占的代理店契約を結んだことと全く同じだ。
この会議で成立した四カ国同盟は、日英米仏の四カ国で太平洋地域の現状維持を約したものだ。四カ国が協力して太平洋地域の平和を維持しようということになった。四カ国が協力するわけだから、日英同盟という個別の同盟は不要という論法だ。
しかしアメリカの真のねらいは、英米仏の三国によって日本の太平洋地域における暴走を食い止めようとすることにあった。イギリスの後ろ盾を排除し、三国で日本を牽制したのだ。
同様にワシントン会議で、九カ国条約と海軍軍備制限条約が締結された。これも日本による中国への利権拡大阻止、アジア太平洋地域における日本の勢力拡大阻止をねらったアメリカの外交政策の勝利だ。日本は、英国の支援が受けられなかったため、アメリカの外交政策に完全に屈した。
背景として、第一次大戦を通じ、英国が疲弊し、米国が伸張していたことにより、当時の内閣は立憲政友会の原敬内閣~高橋是清内閣だが、この政友会内閣が対英協調よりも対米協調路線を取っていたことが挙げられる。
全てが上述のハリマンとの約束違反と国際連盟での人種差別撤廃の提言につきる。もし満鉄をアメリカと共同経営し、日英同盟が継続されていたなら、アメリカはその後の満州建国にも反対しないだろうし蒋介石の応援もしないし、したがって日中戦争もなく中国は国民党政権になっていただろう。
またヨーロッパではユダヤ人の迫害のため中国へ逃れてくる者がいたため、ソ連と満州の国境にユダヤ人の入植地を作ろうとした河豚計画と称する考えもあったようだ、もしこの計画がうまくいっていたなら今の中東のイスラエルとアラブの紛争もなかったかもしれない。
このような、戦略上の失敗と、元老という指導者(事実は代理店店長)を失い、官僚国家したため、指導者がいなくなり、長期戦略を失い孤立していった挙句の果てが、日中戦争と日独伊三国同盟という、「日本がランドパワー化する」破滅的大失策だ。
すべては、江戸時代以降、日本は「対プロテスタントOEM提供契約」こそが、国家戦略の柱だということを理解しない、視野狭窄の官僚国家になってしまったことによる破滅だ。
太平洋戦争の歴史的意義についても、ランドパワーとシーパワーの観点から読み解く必要がある。上述のように、日本は明治以来、陸軍はドイツに学び海軍はイギリスに学んだ。両者の戦略はそもそも大陸志向か海洋志向か大きく異なっており、相互の調整や連絡、あえて言えば国家戦略は全くなかった。それでも日露戦争の頃まで
は明治維新第一世代、いわゆる元老(伊藤博文や山縣有朋など)が実質的な陸海軍ひいては日本国家のオーナーとしてイギリスにお伺いを立てながら国家戦略を策定していた。日英同盟(1902年)締結にともなう日露戦争はその最たる例である。
しかし大正昭和と時代が下がるにつれ、元老という「オーナー」を失い官僚国家となっていく過程で陸海軍両者の意識あわせ、利害調整はできなくなってしまった。いわば官僚制度の弊害が極度に現れたのである。このような流れの中で、私は太平洋戦争開戦を決したのは2.26事件であったと考えている。
2.26事件の史的意義についてであるが、表面的には陸軍皇道派青年将校の決起と鎮圧とされている。しかし、より重大な意義は、それが陸軍上層部が意図していたことではなかったにせよ、客観的には「陸軍が海軍に戦争を仕掛け、昭和天皇が鎮圧を決しなかったなら、陸海は内戦に陥っていた可能性があった」ということである。青年将校の決起直後、陸軍上層はこれを黙認あるいは追認する素振りをみせた。また、海軍は重鎮を殺されたため、戦艦長門を東京湾に入れ、陸戦隊を上陸させたのである。
結果として、昭和天皇の決断により暴徒として鎮圧され、内戦の事態は回避されたが、以後海軍は陸軍によるテロを恐れるようになり主導権を陸軍に握られていく。
その後の展開は、昭和14年にノモンハンで陸軍は仮想敵のロシアに大敗を喫し、中国戦線も膠着すると、全ての問題解決を海軍に振った。即ち三国同盟+日ソ不可侵条約(陸軍主導のランドパワー連合)から対英米(シーパワー)開戦である。当初海軍はアメリカとの開戦に反対であった。彼我の工業力の差から勝ち目がないし、
石油をはじめとする戦略資源を英米に依存していたことを熟知していたからである。しかし、対英米戦を想定し、予算や人員を取っていたため、「開戦できません」とは言えず、山本の近衛に対する五相会議での有名な発言「半年や一年は暴れて見せる」に繋がるのである。これは裏を返せば「半年や一年しかもたないから開戦するな」と
いうメッセージを官僚的な保身と修辞でいっただけである。要するに、陸軍に押し切られてしまったのである。仮に2.26事件がなく、何らかの形で海軍主導が確立していたら、英米と連合しソ連と開戦していたであろう。実際、関特演(関東軍特別演習1941(昭和16)年7月7日
独ソ開戦のとき日本陸軍が行なった動員。通称、関特演。6月に独ソが開戦すると日本は対ソ参戦を想定し、7月7日関東軍を動員。兵力を戦時定員に充実するほか、多数の部隊、弾薬・資材を満州(中国東北)に輸送した。この結果、関東軍は70万を越す大兵力となった。)はこの可能性を如実に示す。図らずもこの構図は戦後冷戦と
いう形で実現する。上述の日露戦争と同じく、太平洋戦争の本質とはそのようなものなのである。
注意していただきたい。日米対立の遠因はハリマン提案の拒否だが、直接の原因を作ったのは陸軍が満州事変からシナ事変へ至る、大陸派遣軍の独走を中央が事後的に追認する形でいたずらに戦線を拡大し、膠着状態に陥った、いわば、大陸政策の破綻である。そのツケを彼らは自ら払う(中国本土から段階的撤兵=責任問題発生)ことなく、全て海軍に振ったのである
(対米開戦)これは我々がいやというほど見せ付けられてきた霞ヶ関の保身と問題先送り、無責任体制と全く同じではないか。薬害エイズ、BSE、不良債権処理と全く同じ「官僚の保身と問題先送り」が戦争の原因で300万の戦没者はその犠牲者即ち薬害エイズの犠牲者やBSEの農家、貸し剥がしにあう中小企業と変わるところはない。
上述のところと矛盾するようであるが、ランドパワーやシーパワーなどというまでもなく、官僚の保身と問題先送りによって太平洋戦争の真の意味は語ることができ、さらにはその結果責任を誰も取らされていない!ことに気づくべきである。わが国政府は今日もA級戦犯はすべて戦没者として扱ってるのであり、今日に至るまで、先
の大戦を総括できてない。
2.26事件以降陸軍というランドパワーに牛耳られてきた日本であるが、戦後はアメリカというシーパワーによって武装解除され、外交的には、再度シーパワーの一員になった。このことを如実に示すように、いわゆる東京裁判では、海軍関係者のA級戦犯はゼロであり、陸軍関係者が多数、A級戦犯として絞首刑となっている。
戦後も、海軍関係者は海上保安庁や海上自衛隊に採用されたが、陸軍関係者の陸上自衛隊への採用はなかった。戦後の武装解除とは、すなわち、「日本をランドパワーからシーパワーに戻す」ことを企図していたことは明白だ。
ちなみに、海軍とアメリカは、水面下で戦争中から戦後処理と終戦に関して、接触していた形跡がある。
しかし、日本内部には陸軍の残党およびランドパワーが根強く、これが結実しシーパワーに反旗を翻したのが田中角栄以降の田中派、中川一郎、金丸信などであり、鈴木宗男につらなる系譜である。田中による日中国交回復はその白眉であり、彼がロッキード事件により潰された事は、シーパワーたるアメリカが彼の政策(日中国交回復、資源外交)をどう見ていたかを物語る。
反対にシーパワーは吉田茂、岸信介、佐藤栄作から中曽根康弘に連なる流れである。現在の清和会に代表されるいわゆる台湾派である。田中角栄以来のランドパワーの総本山である津島派の影響力が落ち、こうみてくるとシーパワーにとって、「好ましからざる」ランドパワーが駆逐されていることが理解できよう。ランドパワーにも使い道はある。韓国や台湾には帝国陸軍出身者がかなりの層でおり、かれらとのチャネリングをやらせればいいのだ。アメリカには気づかれない程度で。
余談ではあるが北朝鮮は大日本帝国陸軍の鬼っ子であるという気がする。
このように、日本にとっての「二度目のインド洋独自ブランド進出」は戦争によって拒否され、失敗した。
結果は、17世紀の鎖国と同じ、日米同盟という、「対プロテスタントOEM」に落ち着いたのだから、鎖国を選択した二代将軍徳川秀忠と戦争を選択した首相の東条英機は、どちらが優れた戦略家であったのか、議論の余地はない。
私が何度も指摘したように、17世紀と20世紀において、「歴史のパターンは繰り返したのだ。」欧州において、17世紀の三十年戦争と20世紀の第二次大戦がともにドイツを主要舞台として、繰り返されたように。
-下に続く-
以上
文献:龍馬とフリーメーソン「闇の黒幕」 (ミリオンコミックス)



