戦艦大和
戦艦大和(艦長:有賀幸作大佐)の諸元は、公式排水量6万9,100トン、全長263メートル、最大幅38.9メートル、乗員2,800人、最大速度27.5ノット/時(51キロメートル/時)、航続距離7,200海里(1万3,300キロメートル:巡 航16ノット/時)、満載燃料搭載量6,400トン(7,400キロリットル)である。連合艦隊の作戦計画(GF機密第060837番電)では搭載燃料は2,000トン以内(片道分)であったが、連合艦隊参謀(補給担当)小林儀作大佐等が 2,000トンの指示燃料搭載に加え帳簿外重油(タンク底重油)を2,000トン追加給油して往復分の燃料を搭載したと言われている。
(中略)
大和の航続距離は、16ノット/時航行で7,200海里(1万3,300キロメートル、消費燃料6,400トンを基本に計算)、呉から沖縄西方海上は、航路によるが直線片道約1,500キロメートル、往復約3,000キロメートルである。4,000トンの石油搭載量では巡航速度(16ノッ ト/時)で約8,300キロメートルの航行が可能となるが軍艦の場合速度の上昇とともに燃料消費量(蒸気タービン4基4軸、15万馬力)は急増し、18ノット/時で1.3倍*10、24ノット/時で3.5倍、最大速度の27ノット時では4.7倍程度になる。大和は出撃後、九州坊の 岬沖を18ノット/時、米艦載機の攻撃時は24ノット/時で航行しているが単純計算で沖縄往復3,000キロメートルのうち2,000キロメートルを18ノット/時、1,000キロメートルを24ノット/時で航行した場合、消費燃料量は約3,000トン弱、最速戦闘行動時での消費(残り1,000トン)を考慮しても往復の航海はギリギリ可能であったと推定される。
日本海軍の象徴と言える戦艦大和には往復燃料が蓄載されていた。場当たり的といえる1945年(昭和20年)4月の沖縄突入作戦において無残に沈没する事となったがこれは終戦の4ヶ月前の出来事となる。はたして日本は本当に石油が足りなかったのであろうか。前回は太平洋戦争中の資源(石油)獲得、還送が予定通り行なわれなかった点をあげたが、今回は日本国内の石油事情に注目したい。
戦時体制化の石油産業
まず日本の石油行政・産業に着目すると満州事変から太平洋戦争へと移り変わる過程で大きく変化している事が分かる。
1.1934年(昭和9年)、「石油業法」
2.1937年(昭和12年)、「人造石油製造事業法」
3.1938年(昭和13年)、「石油資源開発法」
4.1939年(昭和14年)、「石油独占販売法」
上記4種の法制、関連行政機構が急速に整備されていく事により開発(石油資源開発法)、人造石油製造(人造石油製造事業法)、精製(石油業法)、販売(石油独占販売法)の石油の流れが、政府により完全に管理・統制される体制が確立されていった。
国内石油増産の努力
人造石油は開戦前から日本が期待した石油代替燃料であり、計画の最終年度を1944年(昭和19年)とした目標生産量は、揮発油、重油共に100万キロリットルであった。これは石油需要の半分は人造石油で賄うという前向きな試みであったが、実際の達成率は平均して11%前後であった。
相次ぐ米国の対日経済制裁に伴い石油の確保が大方針となってきたが、日本国内の油田は小規模なものが多かった。当時の代表的な油田は「八橋(昭和14年生産量:1,550バレル/日)」や、「雄物川(昭和14年生産量:1,111バレル/日)」などで、1934年(昭和9年)は石油開発会社は19社であったが、1939年(昭和14年)には52社に増加していた。 しかし急速な法整備も結果には結びつかず国内の新規石油発見は伸び悩んだ。1937年(昭和12年)以降徐々に減少傾向を辿り、1941年(昭和16年)には4,600バレル/日であった。
人造石油は足を引っぱった
開戦前には、石油問題の解決を求める東條陸相も人造石油に大きく期待していたが、石油需給に大きな影響を与えなかった。その理由としては、次の事が挙げられる。
①石炭液化の先端技術国ドイツから既制の水素添加装置、諸機材の輸入を予定していたが、欧州大戦の勃発によって装置、資材の入手が困難となった。
②国産特殊鋼、工作機械の品質水準が低く、石炭液化に必要な二〇〇気圧、摂氏四〇〇度の反応条件に堪えるクローム鋼材の調達と資機材の製造が出来なかった。
③戦時体制の進展によって、その他の関連資機材の供給が不足した。
人造石油の生産においても、同盟国ドイツとの技術格差は大きかった。『米国戦略爆撃調査団石油報告』では、「戦略的には日本の人造石油産業は戦争に貢献しなかった。そのために、膨大な労働力と資材が費やされた。人造石油は戦争を助けたというよりは、むしろ、国家の戦争努力を妨げたことは確実であった。投入エネルギーよりも抽出エネルギーの方が少なかった」と記述している
これは、現在、「エネルギー利益率(EPR)として定義され、生産エネルギーと消費エネルギーの比で表される、EPRが一.〇を割ると石油報告の内容の通りになる。当時の技術ではオイルシェール、石炭液化のEPRは〇.五程度であった。つまり一の人造石油の生産するために二のエネルギー(オイルシェール、石炭、電力、資機材など)が投入されて、採算性がなかったということになる。経済性を無視した人造石油の生産であるが、戦時に必要な戦略物質にはコストは関係なかったといえる。
米国では高性能ガソリンとはオクタン価100を意味していたが、日本がオクタン価86や87ガソリンの製造に成功したのが1936年(昭和11年)である。その後1944年(昭和19年)9月には水素添加装置を完成し、オクタン価92の航空機用ガソリンの試験的な製造に成功したが本格的な操業までは至っていない。つまり日本は高オクタン価ガソリンが製造出来なかったのである。南方資源を日本へ還送できなかっただけでなく国内の新規石油発見も思うように進まず、量が確保できなかった。更に製造技術不足で質も確保できなかったのである。冒頭の戦艦大和の往復燃料については燃料に余裕があったのではなく、なけなしの燃料を戦艦大和へ回したため、余計に戦況が悪化したと批判された。
次回、国外の石油獲得に移る
前回(日本国内の石油事情)に引き続き、今回は国外の石油獲得に注目したい。
北樺太石油
サハリン事件でおなじみの樺太石油だが、当時日本は唯一とも言える海外の石油権益を樺太に保有していた。北樺太石油は明治3年(1870)に発見されたが、商業的開発には移行していなかった。
時系列は下記の通り
1919年(大正8年)日露合弁でオハ地域の試掘を開始したが、翌年に革命派パルチザンの北樺太占領、尼港日本守備隊の全滅、尼港日本人惨殺事件、日本軍の北樺太進駐等が起こり、一時作業を中断した。
1923年(大正12年)に再開した試掘作業でオハ油田を発見した。
1925年(大正14年)、日ソ基本条約が北京で締結され、北樺太の既開発油田の採掘権および東海岸での試掘権(大正14年より11年間:利権契約)が認められた。
1926年(大正15年)、北樺太石油株式会社を設立し、北辰会の権益を引き渡した。
1933年(昭和8年)度の3,860バレル/日、日本への持込量はソ連国営石油会社からの購入分を含め同年6,260バレル/日であったが、
1936年(昭和11年)、日独伊防共協定の調印、張鼓峰での国境紛争戦闘、
1939年(昭和14年)、ノモンハン事件等によりソ連側の圧力が増加し、原油生産量は徐々に低下をたどる。
南方(スマトラ、ボルネオ、ジャワ)資源
結論は上述の通りだが、詳しい状況に触れておこうと思う。
交渉決裂
開戦前、東南アジアの主要産業国であった蘭印(現:インドネシア)は、宗主国オランダのドイツへの降伏によって政治的な空白地帯となっていた。そこで1940年(昭和15年)日本政府は小林一三商工相(阪急電鉄の創業者)を特派大使に任命して、石油使節の向井忠明(三井物産会長)と石油専門家や陸軍中野学校出身者などを加えた交渉団をバタビア(現:ジャカルタ)へ派遣した。目的は石油の鉱区権益の取得と輸入石油の確保で、日蘭印会商と呼ばれる交渉が行なわれた。同9月に日独伊三国同盟が調印により、当時事務的に対応していた蘭印側に態度が硬化させるなど交渉は行き詰まり最終的には合意には至らなかった。
石油の輸入については陸・海軍の要員も加わり、米国編重の石油輸入を蘭印に切り替える指令を受けていたこともあり、目標量の確保には高圧的態度で臨んでいた。購入交渉相手は英蘭系ロイヤル・ダッチ・シェルの現地子会社のバタフセ石油と米国のスタンダード系のNKPMであり、日本の要求に対し70パーセントの回答を得ていた。だが松岡洋介外相は不服との事で交渉の打ち切りと帰国を指示している。この蘭印との交渉は最終的にオランダが米国と英国に強調して日本資産の凍結措置を行なった為、米国に代替する石油輸入とはならなかった。これ以降、陸・海軍は交渉による石油確保を放棄した。
制圧作戦
南方と一言でいっても西はビルマ(現:ミャンマー)、南はインドネシア、と大陸国から島国と広範囲に渡る。
日本軍は南方油田確保のため、落下傘部隊が検討されていた。これは開戦の1年前から全陸軍から選抜された要員が訓練していたもので、米国の石油禁輸が実施される前から、陸・海軍で準備されていたものである。
開戦1週間後には、早くもボルネオ島のミリ油田、セリア油田、ルトン製油所を制圧した。落下傘部隊が最初に行なわれたのはメナドへの降下作戦からであった。1942年(昭和17年)1月にはボルネオをサンガサンガ油田、タラカン油田を占領し、同年2月14日にパレンバンへの降下作戦が行なわれた。石油地帯の占領とともに、日本から石油技術者が送られ破壊された石油と精製所の設備復興に取り組んでいる。
南方(スマトラ、ボルネオ、ジャワ)の原油生産量は、開戦前年の1940年(昭和15年)度には17.8万バレル/日(年1,033万キロリットル)で、日本軍が上陸・占領した1942年(昭和17年)度は7.1万バレル/日(年412万キロリットル)と、対15年比39.8パーセントに激減している。その後石油部隊の活動により、1943年(昭和18年)度には13.6万バレル/日(年788万キロリットル)、対15年比76.7パーセントと、占領期間の最高生産量を記録している。南方原油の生産量のピークは1943年(昭和18年)第3四半期(10~12月)で、14.6万バレル/日と開戦前の82パーセントにまで回復していた。高品位の石油製品の生産が期待されたパレンバンの第1製油所は、1942年(昭和17年)5月には航空ガソリン(オクタン価87)の生産を開始し第1製油所は同年9月に、第2製油所は翌年1月に部分操業を開始している。なお、中部スマトラでは昭和19年9月、帝国石油隊により戦後インドネシア最大の油田となるミナス油田(カルテックス鉱区)が発見されている。
サウジアラビアの油田
その他海外からの石油輸入の努力として1939年(昭和14年)、駐エジプトの横山正幸公使等(横山使節団)がサウジアラビアで油田が発見されたとの情報を聞いてリヤドを訪問している。横山使節団一向はカイロを出発した時から日本の石油利権取得を懸念する米国側に監視されており、リヤド滞在中の行動も常駐員に見張られ随時、米国に報告されていた。米国の横槍もあり進展は見出せなかった。
日本は石油権益確保の為に対象国の政治的人脈の把握や、優良な権益条件の掲示、または開発計画への支援など、助成が複雑に絡み合った忍耐強い交渉力は経験した事がなかったのである。
次回は海上輸送路の推移に移る
前回、前々回と日本軍の石油獲得について注目してきた。開戦当初は旨く事が運んでいたかにみえたが、国内・外問わず石油の量、質ともに十分確保でない状況が続き日米の戦況が逆転する。はたして一番のウィークポイントはどこであったのであろうか。海上輸送路の形勢を見ながら注目していきたい。
情報戦
先に一番の問題点から書くと、日本にとって致命的だったのは日本の輸送船団の暗号が米海軍に解読されていたことである。それには出発時刻、港湾名、会合点、船団編成などの情報があった。山本五十六司令長官の言葉"日本海軍暗号の解読は絶対にありえない"と日本海軍が自信を持っていた各種の暗号は戦争中にほぼ解読されていた。そして米海軍の潜水艦隊は先行して会合地点に先回りし、輸送船団を待ち受け集団包囲による殲滅攻撃を行ったのである。更には日本の輸送船団は制海権と制空権を米軍に奪われるにしたがい航空機の攻撃にも曝されることになる。日本が占領した南方の石油は、1944年(昭和19年)に入ると連合国軍の空襲を受けるようになる。最初に空襲をうけたスラバヤにあるウォノクロモ製油所は5月17日戦載機の攻撃によって壊滅。最大の製油能力をもつパレンバン製油所への初空襲は8月11日で、翌年の1月24日には50パーセントの製油能力を失う事となった。 更に大打撃を被ったのは1945年(昭和20年)3月31日、シンガポールのブクムとサンブーの石油積出既知が空襲で壊滅したことである。これらの基地はスマトラとそのほかの地域から原油と石油製品が運び込まれる貯油・積出の中継拠点であったのである。この空襲によって集約機能は完全に喪失し石油の還送機能の中核が破壊されてしまったのである。
1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦が転換点(ターニングポイント)とも評されているが、上記のように既に情報戦で敗れ続けていたのである。日本海軍の損害が航空母艦4隻、重巡洋艦1隻に対し、米海軍の損害は航空母艦1隻、駆逐艦1隻と目に見えて開きがあったが、情報戦に敗れる事はそれとは比較にならない程大きい。海戦直後に米国新聞の一面トップに日本軍の攻撃を事前に察知した海軍の内容が掲載されたが日本軍は気づけなかった。戦時中、暗号が解読されていることに気づくことができたならば日本軍は暗号を変更しようとしたかもしれない。
崩壊・途絶する海上輸送路
これまで書いてきた通りの問題や諸事情もあり、後手後手の対応に南方油田を占拠しても海軍の燃料は常に不足していた。開戦時58万トンのタンカーが1945年(昭和20年)8月には25万トン(うち稼動6.3万トン)に減少している。無謀な戦略の上に同5月、有力な同盟国であったドイツが連合国に降伏し、ついに日本はたった一国でイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙して行くことになる。
シーレーン確保の思想が欠如していた日本海軍の作戦範囲はそもそも国力を超えていたのである。
開戦当初から日本軍に冷静な判断力があれば、事の重大性を理解し時には最小限の被害に食い止めるよう、戦線の早期離脱など考えられたであろう。しかし、戦争と石油(上)でも書いた通り、太平洋戦争当初の大勝利の連続が根拠のない自信を生み出していた点が大きい。開戦から6ヶ月目に当たるミッドウェー海戦で大損害を被った時が最初の反省時期であっただろう。そこで客観的検証をし、楽観的・希望的観測を排除していれば、少なくとも未来は変わったはずである。
北号作戦
海上交通路の閉鎖とともに日本海軍が考案した戦艦を輸送船の代わりに使用するというものである。1945年(昭和20年)2月に計6隻の編成でシンガポールから航空機用ガソリン、生ゴム、錫、マンガン鉱などを輸送している。戦艦「伊勢」、「日向」は船尾の砲塔を取り外して、カタパルトと格納庫を設置する改造を行ない1万個のドラム缶(2000キロリットル)が積み込まれている。度重なる潜水艦と航空機の攻撃に耐えぬいた艦隊も燃料不足の戦艦は浮き砲台として呉などへ係留された。日露戦争以降、猛威をふるっていた日本戦艦も最後は運搬船、特攻、浮き砲台としての用途で幕を閉じた。
※ちなみに南号作戦は、1945年(昭和20年)1月に行なわれた南方からの重要物資緊急輸送作戦の事である。
終戦
1944年(昭和19年)7月サイパン島の陥落によって、米軍は戦略爆撃機B29の基地を確保した。同年11月24日、東京がB29による空襲を受け、昭和20年3月硫黄島の日本軍守備隊が玉砕すると、米軍の戦闘機基地が確保され、B29にP51などの護衛戦闘機が随行するようになる。日本本土の制空権が失われ2度の原爆投下の上、日本は降伏した。
何故このような結果になったか、ここまでお読みいただければお分りかと思う。端的に言えば日本の陸・海軍には補給や護衛といった概念が無く(薄く)戦闘艦中心主義が支配していたのである。
日本と状況が近い英国は第一次大戦のドイツのUボート攻撃による会場封鎖を教訓に開戦と共に護衛艦隊を編成、最終的には護衛空母43隻、艦艇800隻を保有し対潜水艦戦略を実施し、Uボート活動をほぼ封じ込める事ことに成功している。同じ島国でも雲泥の差が生じている。
次回、戦時中の不可解な事件に移る
#9これまで日中戦争から太平洋戦争と移りゆく開戦から終戦に至るまで戦線の推移や石油獲得について注目してきた。今回は、戦時中の不可解な事件について注目したい。
ワード号事件
真珠湾攻撃の前日である1941年(昭和26年)12月7日に日本海軍が禁止区域でアメリカ海軍(駆逐艦ワード号)に攻撃された事件である。禁止区域とは米国潜水艦の潜航が完全に禁止される区域(航行制限区域)のことである。日本海軍の侵入は明らかに攻撃の意思があったものとし米海軍による正当防衛として処理されている。日本海軍が真珠湾攻撃を開始するまで時間にして45分前の事である。これは国際慣習法上、不審船の撃沈に相当すると解されている。攻撃された日本海軍(潜航艇)の実被害状況は明らかにされていない。米海軍は砲撃・爆雷攻撃で国籍不明の潜水艦を撃沈したとハワイ太平洋艦隊司令部に報告している。
当時、米海軍は日本海軍の外交暗号(パープル暗号)の解読に成功しており、コーデル・ハル国務長官は開戦時期を察知していたと言われている。それとは逆に、開戦時期は察知可能だったが真珠湾攻撃である予測までは不可能だったとの見解もある。事前の警告無しに攻撃した日本海軍は不評を買うわけだが、ワード号事件を見ると米海軍は真珠湾攻撃タイミングは十分把握していたととれよう。戦争にスムーズに移行したい米国上層部は事前に察知していた情報は公開せず、真珠湾攻撃後に情報公開する事で、自国の戦争参加の票を効率よく集める事に成功する。結果として戦争反対派の勢力を抑え国をひとつにまとめあげている。
阿波丸事件
緑十字は工事現場などで掲示されている安全第一の標語中央に安全の象徴として用いられる十字のマークでご存知かと思うが、当時"緑十字船"、"阿波丸"という安全航行を保証(安導権)された船があった。
この船は米国から届いた米国人捕虜への救援物質を香港やシンガポール等に寄港しながら届けていた船である。役目を終えての帰路に、南方地域から人員や政府、企業関係の便乗者が"阿波丸"に乗船した事があった。これだけであれば問題にならなかったが、軍部は船長の反対を押し切って、最終寄港地のシンガポールで重油やガソリンなど合計9800トンの軍事物質を同船に積み込んだのである。この軍事物資の輸送は"緑十字船"の協定違反で、安導権が保証されなくなる。
(100パーセント違反とはいえない説が多い)
そして1945年(昭和20)4月1日、台湾海峡で米潜水艦クィーン・フィッシュ号の攻撃を受けて"阿波丸"は沈没した。日本政府は米国に対して緑十字船への攻撃を抗議し米国はこれを認めた。しかし戦争中であり、戦後の協議事項としていた。その後1949年(昭和24年)4月、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の要請を受けて、日本国は国会で米国に対する損害賠償請求権の放棄を決定。米軍の占領下とはいえ、"阿波丸"事件は不可解な結末に終わった。
盧溝橋事件
1937年(昭和12年)7月7日に盧溝橋で起きた発砲事件である。
これが日中戦争の発端となり戦争状態に突入していった事で知られている。戦争と石油(上)で石原莞爾が関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した際、自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画をしたものと書いたが、この事件の謎は最初の1発目を誰が撃ったか?に集約される。中国側研究者は日本軍の陰謀説を、日本側研究者は中国軍の陰謀説を唱える論者も存在するがいずれも大勢とはなっていない。
戦時中の不可解な事件は戦後処理にて協議され、結論が導き出されてきた。引き続き協議、研究される未解決分野も多い。米国が本格的に参戦した1941年(昭和26年)12月8日の日本軍のマレー半島上陸と真珠湾攻撃から終戦までの期間を数えると3年8ヶ月。1931年(昭和6年)の満州事変まで遡ると15年になる。満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争(大東亜戦争)の流れを断続的な戦争として十五年戦争との総評もあるが今はそう呼ばれる事は少なくなった。しかし戦後処理に至っては、終戦から1978年(昭和53年)の日中平和友好条約までとして数えても確実に23年間という膨大な時間がかかっているわけである。そもそも他国の戦後処理は賠償はおろか謝罪さえしてないケースが殆どであり、この事実は如何なものかと想う次第である。
前回、戦時中の不可解な事件を数点あげた。今回は戦時中の石油資源の見落としに注目したい。
満州での石油探鉱
1929年(昭和4年)、満州炭鉱は満州里近辺のジャライノール地区で地質調査を行なったが商業化にまで至らない結論となった。アスファルト鉱床は存在するが鉱量が少ない為である。満州事変勃発後も再調査が行なわれるが成果を得ないまま1931年(昭和6年)に作業は終了した。続いて場所を変え1932年(昭和7年)に瀋陽西の阜新地区で調査を行った。そこでは1,000メートル級の試掘井を掘って200リットルの油兆を発見した。この報に満州石油、日本石油等が協力することになり、ダイアモンド・ボーリング坑を使用した2,000メートル級の試掘井を掘ったりと努力を重ねたが成果は上がらなかった。後に、南方石油の確保の指揮が優先され掘削機材と石油技術者が南方に移動されこの地域での石油探鉱作業は終了した。
戦後に中国の石油探鉱により中国3大油田の大慶油田(2004年生産量:93万バレル/日)、遼河油田(同:30万バレル/日)、勝利油田:同53万バレル/日)が発見される。
遼河石油
満州での石油探鉱の図の通り、遼河石油は戦前、日本が集中的な石油探鉱を行った阜新地域より東に山一つ超えた位置と非常に近かった事が分かる。 原油生産量はピーク時の1995年で1,552万トン(31万バレル/日)である。戦争直前の日本が国内原油生産量と輸入量を合わせて450万キロリットル(8万バレル/日)であった事を考えると驚異的な規模である事が分かる。これは1995年と戦前の石油技術差異を無視した比較であるし、そもそも遼河石油の高流動点原油の貯留層深度が6000メートルである事を考えると当時の石油開発技術では遼河石油の真上地点を探索したとしても検知できなかった可能性もあるだろう。しかし石油不足が敗戦への大きな問題のひとつであった事を考えると取上げて見ても良いのではないだろうか。当時の日本軍が阜新地域を探索箇所に選択した理由は定かでないが、広大な大陸国(満州国)のそれも日本列島に近い海岸近くにあった事は確かである。
石油増産の努力
戦時中、国内石油増産の努力として人造石油の方向性を模索したが失敗に終わった。(参考:戦争と石油(6))
時は流れ1998年8月に遼河油田は石油回収率向上技術のひとつであるEOR(石油増進回収)を適用している。遼河油田は蒸気やボイラーからの排出ガスを圧入し、昨今は二酸化炭素隔離を狙う新たな目論見が行なわれている。
※サウジアラビアにある世界最大の埋蔵量を誇るガワール油田(1951年生産開始以来、平均約500万バレル/日)やカフジ油田では海水や地層水を使用した圧入が行なわれている
圧入物質として二酸化炭素を使用する場合、液体や気体を通さないキャップロック層下の帯水槽に圧入する必要がある。その点で採掘不能になった炭層の再利用や採掘中油田に使用する事で、回収率向上と地球温暖化対策の面でメリットがある。しかし現在は貯蔵コストが高く、また地中に封じ込めた二酸化炭素が漏れ出す可能性など危険性を指摘する意見もあり、20年後の炭酸水素イオンへ化学変化仮定も含めて引き続きモニタリングが必要である。コラム本題からは反れてしまうので詳しくは別の機会で纏めたいと思う。
文献:石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」 (朝日新書 57)文献:世界エネルギー市場―石油・天然ガス・電気・原子力・新エネルギー・地球環境をめぐる21世紀の経済戦争
文献:ブラッド・オイル 世界資源戦争
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