第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)の終戦を迎えたのは62年前の今日になる。当時の人々は終戦の詔勅(玉音放送)を耳にしてどのような心境であったのだろうか。玉音放送を聴いた事のない方は一度コチラを訪れると良い。
戦争を経験した事のない者にとって放送(天皇の肉声)を聴いただけで自刃する者の気持ちは図れない。祖国を思う気持ちは相当なものであったのだろう。当然のことながら未知の領域である。※私もそのうちの一人である
しかし、今の日本を見てどう思うのかは容易に想像が付くだろう。国全体ではなく個人レベルでも良い。胸を張れるだろうか。自問自答するのに調度良い日である。
62回目の終戦記念日の15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれる。天皇、皇后両陛下、安倍晋三首相や遺族ら約7200人が参列。軍人・軍属約230万人と民間人約80万人の計310万人の戦没者の冥福を祈る。 式典では、安倍首相の式辞の後、正午に全員で1分間黙とう。天皇陛下のお言葉に続き、衆参両院議長や遺族代表らが追悼の辞を述べる。
我々の生活は何百・千何千万人という人々の犠牲の上に成りたっている。日本は裕福で我々の世代は欲しいと思ったものは何でも手に入れることができる。だがこの豊かな社会の裏に、明日を生きたくても生きれなかった人々の死があることを思うと考えさせられることが多い。
未来へ
敗戦を経験してから、月日が流れ様々な文献から真実に近いことが判るようになってきました。日々情報収集に余念の無い懸命な読者には物足りなさを感じるかもしれないが、出来うる限り簡素、短文で難しいものを噛み砕いて数週間に渡りコラムを書こうと思う。
みなさんに一つだけお願いがあります。 平和な日本といわれながらも凶悪犯罪が続いています。戦後の教育がどこかで間違った。地域、社会、家庭教育を放棄した結果です。本当の平等、自由を教えませんでした。人間として生きることの意味すら教えていない。今からでも遅くないから教えてほしい。教えたら鍛えてください。享楽と平和を取り違えている。平和が欲しいなら義務が発生する。人間が生きることの意味を教えてください。生きたことの証しを残すように教えてほしい。
戦争の本質を見抜いた人物はスペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセトである。オルテガは、一九五四年にドイツで行った講演の中で、一六四〇年頃リシュリューの政策に従いハプスブルク家に挑戦するフランスに対して宣戦を布告せざるを得ない事態に陥ったスペインで、年老いたボルハ枢機卿がフェリペ四世に奉答した次の意味深長な言葉―『陛下、戦争とは、つける薬のないものにつける薬であります』―を引用して戦争の本質に触れ、
「戦争は、すべて、国際(国家間)紛争を解決する最終手段である。」
と簡潔に喝破した(2)。この「すべて」という一句にこそ戦争と平和の本質に対するオルテガの深い洞察が含まれているのである。
中略
(2)色摩力夫【オルテガ】一九〇頁。
平和は戦争と対極にある状態として使われる(想われる)が、太平洋戦争敗戦62周年目を迎えた現在如何だろうか。敗戦直後に比べて平和になっている点は多い。しかし同時に衰退しているものも多い。毎年恒例の反戦平和の大合唱、日本軍による残虐行為について騒ぎ立てた時代も変わりつつあるが、今なお残る自虐史観の影響を受けて、祖国に誇りが持てず目的・目標が見出せない若者も多い。分かっている範囲でも義務教育を終えて高校に進学するが偉くなるよりのんびり生活したいと考え、高校卒業後仕事につかないが8割の人が後ろめたさを感じ、親や友人に背中を押され仕方なく就職するが働く意欲が沸かない人は多い。
石油危機
レギュラーガソリンの平均小売価格が全国で最高値を更新する中、県内で、経営悪化のため閉店するガソリンスタンドが相次いでいる。石油元売り会社からの仕入れ価格が上昇を続ける一方、販売競争の激化で小売価格を上げられず、収益を圧迫しているためだ。業界からは「このままスタンドの閉鎖が続くと、冬場の灯油の流通などにも影響が出る」と、消費者への波及を心配する声も出始めている。
7月下旬に営業停止した松本市島内のガソリンスタンド。経営する会社の担当弁護士は「利幅が薄くなり、資金繰りが苦しくなった」と話す。この弁護士は、スタンドを閉鎖した別の会社も担当。「今後は、大型のセルフ給油式か、相当な地域密着型でないと生き残れない」とみる。
資源エネルギー庁によると、県内のスタンドは、今年3月末で1289店で、1年のうちに30店減少した。ピークだった1997年3月と比べると、200店以上の減。一方、県石油商業組合によると、98年に解禁されたセルフ給油式のスタンドは、今年7月末には県内で117店まで増えている。
3月末に閉鎖した長野市篠ノ井の国道18号バイパス沿いのスタンド。経営してきた千曲市の販売会社の社長(65)は「周辺にある全国展開のスタンドが安く売るため、苦しかった」と打ち明ける。バブル期は、1リットル当たり20円以上の利益があったが、断続的な値上がりが始まった3年前には12、3円、閉鎖前には6、7円に圧縮。仕入れ価格が上がっても、スタンド間の激しい競争があるため、十分に値上げできずにきたという。
1970年代の2度のオイルショックを経ているが3度目の兆しが見え隠れしている。戦争かドル暴落が起因かは時期が変わるかもしれないが、最悪の事を想定しているのといないとのでは全く違う。起こらなければ起こらないに越した事はない。しかし起きてから考え対応するのは遅すぎる。これからの激動をどう生きぬくか、少なくとも過去の戦争から何か得られるはずである。
次回は明治後期もしくは昭和に話を移そうを想う
文献:石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」 (朝日新書 57)
文献:世界石油戦争―燃えあがる歴史のパイプライン〈上〉
文献:世界エネルギー市場―石油・天然ガス・電気・原子力・新エネルギー・地球環境をめぐる21世紀の経済戦争
1914年の第一次世界大戦は歩兵による銃器の使用(火薬)を最大限生す戦略がとられていた。27年後の1941年、第二次世界大戦では急速な内燃機関の発達により戦車、航空機、戦艦などを使用(石油)した戦略へとシフトしていた。無資源国日本は弱点である資源を求め、戦いを始め、初の総力戦において完敗した。開戦理由は米国の石油禁輸との説が一般的だが根は深い。まずは日中の争いから入りたい。
満州事変がもたらした「三つの誤算」
1931年(昭和6年)柳条湖付近で鉄道線路を関東軍が破壊した事がきっかけで満州事変が始まった。これは石原莞爾が関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した際、自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画をしたものである。
関東軍は満州占領作戦を進める一方で三二年二月以降、連日のように新国家建設幕僚会議を開き、建国構想を論議した。そして味方にしうる旧奉天軍閥系の領将を担ぎ出し、清朝最後の皇帝だった宣統帝溥儀を執政するという名の傀儡にすえて、国際連盟が派遣するリットン調査団が満州に到着する直前の三二年三月、「満州国建国」を内外に宣伝したのである。同年九月十五日には、日本政府は満州国を正式に承認して日満議定書に調印した。
満州事変から満州国成立までの経緯はおよそこのようなものだが、ここで留意すべき事が三つある。
一つめは、満州事変は日本にとって、英米などの強国の事前諒解なくして大規模な領土拡張戦争を開始した最初のケースだということである。
元来、近代を迎えてからの日本は、日清・日露戦争から第一次大戦にいたるまで、戦争開始前に英米などの国際的承認を取り付けてから作戦を開始していた。ところが、満州事変ではそうした手続きを無視したのである。
(中略)
二つめは、関東軍と比較して奉天軍閥の軍事力は圧倒的だったにもかかわらず、関東軍が短期的に満州を制圧できたことである。
当時の関東軍の兵力が約一万人だったのに対し、奉天軍閥は三十六万余。さらに小銃三十万、機関銃、追撃砲それぞれ一千以上、火砲五百余、航空機百九十余という戦力は、単純な数の比較でいえば関東軍にとって勝てる相手ではなかった。
(中略)
三つめは、満州国において関東軍が、これまで朝鮮や台湾でおこなってきた総督による直接軍政という統治形態を放棄し、実態はともかくとしても溥儀を執政にすえた独立国という形態をとったことである。
満州事変推進に重要な役割を演じた関東軍参謀の石原莞爾らは、当初は満州の直接軍事占領、つまり朝鮮や台湾と同様の総督統治を考えていた。ところが事変勃発からわずか四日後の九月二十二日には「宣統帝を頭首とする支那政権」構想へと転換している。
1940年石原莞爾が書いた「戦争史大観」には短期決戦を目差す殲滅戦争(Niederwerfung Strategie)と長期(持久戦、消耗戦)決戦を目差す消耗戦争(Ermattungs Strategie)の2つの概念を使って説明しているが、当時日本が想定していたものは短期決戦のみであり長期という発想は無かった。上記の通り初期は諸外国と軋轢が生じるものの奇襲作戦が功を奏し今後の戦いの成功も絶対視する結果に至った。しかし蒋介石 の巧みな消耗戦略によって徐々に消耗戦に引きずり込まれてしまう。
戦線が拡大する日中戦争
満州事変の勃発から1945年(昭和20年)の日中戦争の終戦までを一体の戦争と捉えた「十五年戦争」という呼称は議論の余地を残し、現在は少数意見となっている。むしろ満州事変から日中戦争開始までの7年間は断続的に発生する短期戦の連続だったといえる。限りなく中国戦線が拡大し日本が目差した短期決戦は絶望的となり、以後未経験の消耗戦略戦争へとはまり込んで行く。
消耗戦略型指導者が多い中国を侮った日本の指導者たちは国際情勢に疎い為、敵の実力を把握できなかった。柔軟に戦略展開できる指導者は数えるほどであり、この状況は事がうまく運んでいる場合は問題が表面化されないが、戦況が悪くなると同時に欠陥が露呈される。日本国のように狭い地域では局地線により外交が作用する余地はごく僅かである。しかし中国のような陸国は国境間との駆け引きの出来次第で勝敗を決定づける事になる。柔軟な交渉術と的確な妥協点の見極めが必要であるが日本の迷走した国策はその後、ドイツと手を結びアメリカを牽制しようと考え1940年(昭和15年)に日独伊三国軍事同盟が締結されたが、かえって日独伊と英米などとの対立に拍車をかける結果となった。
次回は日米の争いに移ろうと想う
前回、1931年(昭和6年)満州事変から1937年(昭和12年)日中戦争と日中の戦いに焦点をおいてきた。今回はその後、巧みな英米の戦略により1941年(昭和16年)、日本が真珠湾攻撃に踏み切り、太平洋戦争に突入する部分についてふれたい。
米国のオレンジ作戦
米国は1938年(昭和13年)に統合幕僚会議で「新オレンジ作戦」を策定している。この「色彩作戦」は日露戦争勃発からアジアのバランスを保つために考察されていた国名を色に例えた作戦である。
※レッドが英国、ブラックがドイツ、オレンジが日本、グリーンがメキシコ
米国は元々中国の権益に大きな関心をもっていた為、日中戦争が勃発すると日本へ一貫して要求していたのは中国からの撤兵であった。しかしその後、英米協力の元、経済制裁を打ち出していく事となる。
英国の戦略
当時1940年(昭和15年)5月、欧州では英独間で制空権を握る激しい戦いが行なわれアジアへ兵力を割くことは出来なかった。つまり日本との対決を出来るだけ遅らせたく、また米国が日本と妥結する事はあってはならなかった。その後1941年(昭和16年)1~3月、米国と対日共同作戦「レインボー5号作戦」を結び英米の強調を強くするとともに、1941年(昭和16年)7月2日御前会議の段階で日本の外交暗号を解読し日本軍が南進する事が分かると、米国に経済制裁を行なわせる為に、英国は1941年(昭和16年)7月上旬、国務省の対日強硬派へ共同経済制裁のための働きかけを更に強くしている。
日本の迷走戦略
上記英米の戦略を知らない日本は米国の日米通商航海条約破棄を通告から始まり石油輸出の許可制など制限事項が設けられ徐々に首を絞められる事となる。日中戦争勃発中は、日本は北進(対ソ連戦)か、南進(対英米戦)すべきかに揺れていた。1940年(昭和15年)初頭に戦争経済研究班、1941年(昭和16年)4月に総力戦研究所が立ち上げられ戦争の準備として、各国の戦力比が分析されたが対英米との余りに大きい戦力差に敵国を過大評価しすぎだ等のクレームがあがっている。その後1941年(昭和16年)6月に海軍首脳部で提出された報告書「現情勢下に於いて帝国海軍の採るべき態度」により、戦争実施による石油需要、船舶輸送量は確保可能という自信が構築された。
以下報告書の要旨:戦争と石油(1) -太平洋戦争- 岩間敏著 P57より表・グラクなどを作成し短文に要点をまとめる
報告書の要旨
1.燃料
燃料の需給状況に関しては、現在の貯蔵量、今後の供給量および供給地、消費量等の相互関係を明らかにすることが可能。
※昭和16年9月戦争開始と想定
※昭和16年9月迄に於ける国内石油貯蔵総額: 970 万キロリットル
※昭和16年9月以降、船腹の関係上、大体に於いて貯蔵総額は増減少なきと見込む
2.供給量
| 第一年間 | 第二年間 | 第三年間 | |
| 国内 | 45 | 45 | 45 |
| 人造油 | 30 | 50 | 70 |
| オハおよびソ連 | 5 | 10 | 10 |
| 蘭印 | 0 | 100 | 250 |
| 合計 | 80 | 205 | 375 |
3.消費量
| 第一年間 | 第二年間 | 第三年間 | |
| 海軍 | 300 | 250 | 250 |
| 陸軍 | 60 | 60 | 60 |
| 官民需 | 240 | 240 | 240 |
| 合計 | 600 | 550 | 550 |
4.戦争が2~3年間の場合の見積
| 国内 石油 貯蓄 総額 |
第一 年間 合計 |
第二 年間 合計 |
第三 年間 合計 |
総 合計 |
差引 | ||
| 戦争が3年間 の場合 |
消費 総量 |
- | 600 | 550 | 550 | 1700 | 主力戦争無し 1630-1700=▲70 |
| 供給 総量 |
970 | 80 | 205 | 375 | 1630 | 主力戦争有り 1630-1750=▲120 |
|
| 戦争が2年間 の場合 |
消費 総量 |
- | 600 | 550 | - | 1150 | 主力戦争無し 1255-1150=105 |
| 供給 総量 |
970 | 80 | 205 | - | 1255 | 主力戦争有り 1255-1200=55 |
5.戦争3年間における不足量を補う対策
①人造石油の増産:可能性有(年約20万~30万キロリットル)
②掘削機械の急速整備
③印蘭産油獲得量の増加
※これらの対策により年120万キロリットル程度の増産は相当見込み有
要するに2年間の戦争継続には石油は保ち、3年間の戦争継続では不足するが、増産対策により主力決戦を含む需要にはギリギリ充足可能とした。
この海軍の石油備蓄量970万キロリットルは需給表作成者により水増しされた数値との疑義も出されている。
6.報告書の結論
・直ちに戦争(含対米)決意を明言し、強気を以て諸般の対策に臨むを要す
・泰仏印に対する軍事的進出は1日も速にこれを断行する如く努むるを要す
このとき日米の物量差はGNPで10~20倍、石油生産量で700倍である。日本が目差す短期決戦が無事成功すれば良い結果をもたらす可能性は十分にあっただろう。しかし3ヶ月で終わるとの事で始まった日中の争いも終戦を向かえるまで泥沼化している状態に明るい兆しは皆無だった。
※「人造石油は技術、鋼材の関係上期待薄、ソ連からの原油購入は減少傾向、南方還送は輸送力不足」が想定されていたが、この時点では、報告書は開戦の推進力として大きな力を発揮した。石油の不足量は人造石油、ソ連からの購入、南方還送で補って、船舶の喪失量年60万トンは新造能力で充当する事が可能との試算は昭和1944年(昭和19年)の還送原油79万キロリットル、喪失船舶383万トンの実績と比較すると、いかに現実とかけ離れた数値であったかが分かる。
米国の対日経済制裁
日米戦略の通りだが、下記の経済制裁を加える事となる。
・昭和14年7月: 日米通商航海条約破棄を通告
・昭和14年12月: モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止令)発動。航空用ガソリン製造設備、製造権の輸出を禁止
・昭和15年1月: 日米通商航海条約失効
・同年6月: 特殊工作機械等の対日輸出の許可制
・同年7月: 国防強化促進法成立(大統領の輸出 品目選定権限)
・同年8月: 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制
・同年8月: 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
・同年9月: 屑鉄の全面禁輸
・同年12月: 航空機潤滑油製造装置他15品目の輸出許可制
・昭和16年6月: 石油の輸出許可制
・同年7月: 日本の在米資産凍結
・同年8月: 石油の対日禁輸
よくを見ると、対日経済制裁は日本の工業力、軍事力の基本となる石油、鉄、工作機械等を集中的に狙ったものであることが分かる。
開戦への道
報告書による戦争実施による石油需要、船舶輸送量は確保可能(計算では3年間)という安易な認識と、報告書作成の中心人物だった石川大佐の"南進しても米国の石油禁輸は無い"として南部仏印進駐論を説きまわった事もあり開戦へと移る事になる。
石川大佐は戦後、「太平洋戦争は俺が始めた」と豪語したと伝えられているが、事実、仏印南部進駐は米国の対日石油禁輸を引き起こし、太平洋戦争への引き金になった。戦争への道は「石油禁輸(昭和16年8月1日)までは海軍が引っ張り、それ以降は陸軍が引っ張 った」と言われる。
(中略)
7月26日の大本営機密日誌には「戦争指導班は資産の凍結を石油の禁輸とは思わず、米国はせざるべしと判断す。何時かは来るべし。その時期は今明年早々には非ずと判断す」と日本軍特有の希望・願望から判断への見通しを記述している。8月1日の米国の対日石油 禁輸制裁を受け、愕然・呆然とした空気が陸海軍上層部を覆った。
和解のための交渉中(日米交渉)に戦争になった場合の基地確保と称して「南進したが石油を止められ、戦争への道を進んだ」のであり、「石油を止められたから戦争へ突入」したのではないことが明白であるが、これが当時の日本の政策集団(陸海軍)の見込み、判断、行動であった。
日本が真珠湾に攻撃したとの報に接したチャーチル首相は感激と興奮に満たされ、ヒットラーは日米開戦による米国の戦力分割に喜び、スターリンは日本軍の北上が無くなり対独戦に集中できると喜び、蒋介石は米国と同盟が築けたと喜び、毛沢東は民族統一戦線結成により中国革命が達成できると喜んだ。
次回は太平洋戦争に移ろうと想う
米国の石油禁輸状態のままでは日本の石油の備蓄は底をつくだけであった。南方油田の占領、日本への還送により"石油は残る"との結論に達し、1941年(昭和16年)御前会議で日米戦争(太平洋戦争)が決定された。果たして計画通り南方資源を安定確保し、日本へ資源を還送できたのであろうか。今回は太平洋戦争中の資源(石油)獲得、還送の行方について注目したい。
刹那的な成功
日本の真珠湾攻撃など太平洋戦争当初の攻撃は米軍の準備不足もあり、大勝利の連続となった。最小限の損害で米国艦隊を追い払い南方油田、海上輸送路の確保に成功する。これは戦争と石油(3)で書いた満州事変の一時的成功と非常に良く似ている。つまり大艦隊相手に僅かな兵力で打ち破った功績は、作戦を巧みに展開すれば数倍の兵力差は撃破できるという海戦の法則を無視した根拠のない確信を得る事になる。客観的、長期的視野を持たず、短期的な勝利に酔いしれる日本に徐々に魔の手が迫る事となる。
護衛が付かないタンカーの行方
艦隊決戦主義の海軍に海上保護思想はなかった。よって護衛艦が殆ど付かない状態でタンカー還送が行なわれた。米国からすると願ったりかなったりである。タンカーは動く燃料の塊である。雷撃や空爆でいとも簡単に炎上した。その状況が続き1943年(昭和18年)には日本のタンカーは喪失に製造が追いつかなくなった。少ないタンカーは航空戦艦でまかなうが、速度が遅く効率は非常に悪かった。次第に環送される石油の量も減少の一歩を辿りたどる事となる。
※余談だが最後の還送船は富士山丸と光島丸で、光島丸が輸送した重油が戦艦大和に積載されたと言われている。
底をつく石油
日本は58万トンのタンカー保有量で太平洋戦争へ突入した。貨物船、客船等を含む船舶の合計は634万トンでタンカーの占める割合は9パーセントであった。石油を求めて南方に侵略したにもかかわらず、その輸送手段としてのタンカー保有数は少なく、戦争開始年の昭和16年度でも建造タンカーはゼロに近かった。この保有タンカーのうち大型の優良タンカーの半数以上は海軍に徴用(艦艇給油用)され、小型タンカーは海洋航海が困難であったため実際に南方石油の還送に使用出来たのは20万総トン前後であった。後に護衛艦不足による非戦略的な展開に対し、米国にタンカーを集中的に狙われる事になる。開戦2年後に日本は護衛艦隊を設立するが予定していた462隻の新造計画も実際に製造されたのは167隻であった。また新造された護衛艦の速度が16.5ノットと遅く、浮上してディーゼル航行する米潜水艦20ノットを追いかけられず、また搭載火力が米潜水艦に劣りなかった為逆襲を受けるという致命的な問題があった。
結論として冒頭の問いに答えると、開戦当初は計画通り南方資源を確保し日本へ資源を還送していたが、海上保護思想が無かった海軍は、タンカーを五月雨式に失っていき(元々海軍の占める割合少なかった)、生産が追いつかず二進も三進もいかなくなったと言える。 後手後手の対応に南方油田を占拠しても海軍の燃料は常に不足した。開戦時58万トンのタンカーが1945年(昭和20年)8月には25万トン(うち稼動6.3万トン)に減少している。いかに無謀な戦略であったかが分かるであろう。上記に書いた日本の迷走戦略のうち、石油還送の点は失敗に終わった。
次回、日本国内の石油事情に移る



