満鉄(満州鉄道株式会社)
満鉄とは東インド会社のような植民地経営のための国策会社と言われた満州鉄道株式会社とその鉄道のことである。当初の目的は日露戦争の勝利で譲渡された東清鉄道の支線長春~大連間の鉄道施設や付属地と、日露戦争中に物資輸送のため建設した軽便鉄道の安奉線、安東(現丹東)~奉天(現瀋陽)間の鉄道とその付属地の経営であった。上下水道、電力、ガスの供給や学校、病院、図書館の建設などインフラストラクチャー整備をし、満州都市計画経営の中核であった。最盛期には約80の関連企業を持ち、鉄道経営の他に炭鉱、製鉄、港湾、電力、農林牧畜、ホテルなど広範囲で事業を行なった。大連その後は新京に本社が置かれた。資本金は2億円、内1億円は政府からの現物出資(鉄道施設等)である。その後1920年に4億4千万円、1933年に8億円、1940年に14億円増資を行なっている。
満州アーカイブス満鉄記録映画集1
初代総裁には台湾総督府民政長官として植民地行政で実績を挙げた後藤新平が就任。後藤は関東都督府の干渉で満鉄の活動が制限されることを憂慮して関東都督府の最高顧問を兼任。1912年12月に立憲政友会出身内務大臣原敬の差し金で第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛がされると満鉄の幹部は政党の利権対象となった。度重なる政党介入で社員はしばしば抵抗、団結して1927年社員会を結成。柳条湖事件の爆破で満鉄幹部は事件の拡大派と不拡大派が出た。理事の中で唯一の拡大派十河信二が促し内田康哉総裁は関東軍司令官本庄繁と面談する。その後、満鉄は満州事変に全面協力する方針となる。これにより起こった満州事変は満州国の成立のきっかけとなる。
満州アーカイブス満鉄記録映画集2
満州事変で満州の地域の経営は満鉄ではなく関東軍が行なうようになった。満州国となると日本本土から力を持った高級官僚が送られ満鉄の独占的地位はなくなった。1938年満鉄は重工業の部門を満州重工業開発に譲渡し、鉄道と炭鉱部門と調査部門に特化することになる。総裁松岡洋右は調査部門の強化を図るが、1942年と1943年の満鉄調査部事件で活力を失う。満鉄調査部とは初代総裁後藤の発案で設けられた日本のシンクタンクと知られた部門であった。満州国は1935年にソ連から北満州鉄道(東清鉄道)を買収したり満州国有鉄道や北部朝鮮の一部の鉄道運営や建設を受託したりして営業を拡大した。子会社東亜勧業は国策遂行のため満蒙開拓団の入植地確保で先住中国人を立ち退かせ反日感情を煽ってしまう。満州を近代化させたのは満鉄だと言っても過言ではないが、1945年の日本敗戦の後はソ連軍により接収され中ソ合弁中国長春鉄路へ移管。満鉄は消滅するが、旧満鉄社員など技術者の多くは現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事した。満鉄が残したインフラを中国はそのまま使うことにより、また人員を留用することで中国経済の糧となる。建物の多くも修復され使用されている。
満州アーカイブス満鉄記録映画集3
満州太郎
山下太郎はオブラートを発明した後その特許権利を売却し、ウラジオストクで鮭缶を買占めたり、米騒動の際に外米の輸入を試みたりといろいろ活動を起こした実業家であった。1920年山下太郎は満鉄消費組合と五万石の納入契約をするが、満鉄の一方的な契約破棄で大損害を負う。友人渋沢正雄が鉄材購入し、恐慌により暴落し連帯責任者であった大負債を負う。1924年満鉄は山下太郎と米の契約での損害の代償として社宅建設管理契約を結ぶ。事業網は満州から中国や朝鮮にも拡大したが、1945年の敗戦で在外資産は全部没収されてしまう。大きく当てるし大きく外すタイプの太郎はコツコツと地道な活動をする性格ではない。この頃満州で大儲けした業績から満州太郎と呼ばれた。戦後、満州太郎は石油資源の獲得に成功してアラビア太郎と呼ばれることとなる。1957年にペルシャ湾海底油田の開発利権を獲得して翌年アラビア石油株式会社を創立する。1958年にサウジアラビア・クウェートから採掘権を獲得し、1960年1月30日に採油できることになる。元アラビア石油会長水野惣平は太郎の息子である。
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